第6章

契約書には、白い紙に黒々と書かれていた。九条湊が自らの名義で保有する九条ホールディングスの株式15%を、無条件で彼女へ譲渡する――と。

その額は、残りの人生はおろか、次の人生まで衣食に困らないほどのものだ。

昔の一ノ瀬紗月なら、きっと彼の太っ腹さと愛情に胸を打たれていただろう。

けれど今、紗月の視線が止まったのは、末尾に添えられた「追加条項」だった。

小さな文字で、こうある。

【九条湊氏に子が出生した場合、婚内子・婚外子を問わず、本契約は自動的に失効し、譲渡対象の株式は当該子の名義へ移転する】

――婚内子・婚外子を問わず、ね。

「私たちの子」といった耳当たりのいい言葉で取り繕う気すらない。最初から、一ノ瀬美琴の腹の中にいる“その子”のために道を敷いている。

補償なんかじゃない。罠を仕込んだ施しだ。

九条湊から離れたら、紗月は何も残らない。だからありがたがって受け取れ――そう確信しているのが透けて見える。

一ノ瀬紗月は口元だけで冷たく弧を描き、契約書をテーブルへ放り投げた。パシン、と乾いた音がした。

「佐藤。こっちの弁護士が用意したほう、持ってきて」

スマホを取り、九条湊へ電話をかける。

「株が多すぎるわ。私には受け取りきれない」

怒りも喜びも混ざらない、天気の話でもするような声だった。

「弁護士に作り直させたの。来て。面と向かってサインしましょう」

電話の向こうが、数秒沈黙する。

やがて、九条湊のいつもの甘やかす声が落ちてきた。

「いいよ。全部、紗月の言うとおりにする」

三十分後、黒いベントレーが別荘の門前に止まった。

紗月は裏庭のプールサイド、サマーベッドに身を預けている。白いキャミソールワンピースに、サングラス。大半を隠した顔の下、顎のラインだけが精緻で、ひどく冷たい。

悠々として、力の抜けた佇まい。まるで先ほどまでの波風など、何一つ起きていなかったかのように。

九条湊が大股で近づいてくる。その後ろには、得意げな顔の一ノ瀬美琴がついていた。

「どうして急に要らないなんて言うんだ? 俺が渡すものは、安心して受け取ればいい」

湊が身をかがめ、癖のように額へ口づけようとする。

だが紗月は、気配も残さず、すっと顔をそらした。

湊の動きが一瞬止まる。けれど苛立ちもしない。拗ねているだけだと決めつけたように。

「こっちのほうが、私の好みよ」

紗月は新しい契約書を差し出した。

九条湊は受け取り、ざっと目を滑らせる。15%が5%に変わっているのを見て、駆け引きの一種だと思ったのだろう。

ふっと笑い、何の迷いもなくペンを取り、最終頁に自分の名を走らせた。

「これで満足か?」

水が滴りそうなほど優しい声で、署名済みの書類を彼女へ返す。

彼は気づいていなかった。この新しい契約書には、あの「子が生まれた場合」の追加条項が、すでに跡形もなく削除されていることに。

その横で、一ノ瀬美琴の顔色が、さっと変わった。

あの条項は、美琴が湊にねだって入れさせたものだった。自分と子どもの未来を縛る、最大の保険。

口を挟もうとした瞬間、九条湊が鬱陶しそうな目で一瞥し、美琴の言葉を喉の奥に押し戻させた。

そこへ、九条湊のスマホが鳴った。会社からの緊急連絡だ。

湊は眉を寄せ、少し離れて電話に出る。声は次第に遠ざかっていく。

プールサイドに残ったのは、女が二人だけ。

「お姉ちゃん、何を意地張ってるの?」

一ノ瀬美琴は腹の底の苛立ちを押し殺しながら、紗月の横へ寄った。言葉には、誇示が滲んでいる。

「湊が私をどれだけ愛してるか、今ので分かったでしょ? 会社でいちばん大事な株を、私のお腹の子に残すつもりなのよ。契約を変えたって無駄。湊の人も心も、全部、私のもの」

一ノ瀬紗月はサングラスを外した。

綺麗な瞳に浮かぶのは、波ひとつない静けさ。その静けさが、なぜか美琴の胸をざわつかせる。

「子どもで縛った男ほど、信用できないものはないわ」

紗月は淡々と言った。一語一語が針のように、美琴の恐怖の芯へ正確に刺さる。

「今日、あなたの子のために私を裏切ったなら。明日は、別の女の子のために、あなたを捨てることだってできる」

「……嘘よ!」

美琴は急に声を尖らせた。

「嘘かどうか、あなたがいちばん分かってる」

紗月はサングラスをかけ直し、もうその歪んだ顔を見る気もない。

「あなたは、お腹を盾にして、私のものじゃないものを少し盗んだだけ。哀れで、みじめ」

「みじめじゃない! 湊が愛してるのは私!」

美琴の目に、狂気じみた冷たい光が走る。彼女は一歩、紗月へ詰め寄り、口元を不気味に歪めた。

「ねえ、お姉ちゃん。もし私たち二人が同時に水に落ちたら――湊は先に、どっちを助けると思う?」

言い終えるより早く、美琴は紗月の手首を掴んだ。

そして自分の体を後ろへ反らせ、全身で叫ぶ。

「助けて! お姉ちゃん、なんで私を突き落とすの!」

ぐい、と凄まじい力で引かれ、一ノ瀬紗月は身構える暇もなく――二人そろって、冷たい水へ落ちた。

ばしゃん。

プールの水が一瞬で頭上を覆い、息が奪われる。冷えた水が肺に迫り、視界が白く弾けた。

紗月は泳げる。反射で水面へ向かおうとした。

だが、落ちた美琴が死にもの狂いで絡みつく。腕も脚も使って、紗月の体を抱え込み、じりじりと深みに引きずり込んだ。

水面では美琴が大げさにばたつき、泣き叫ぶ声が悲鳴みたいに響く。

一方、水中の紗月は、美琴に絡め取られ、助けを求める隙すら与えられない。

叫び声を聞いた九条湊が、はっと振り返った。

プールで激しくもがく一ノ瀬美琴。その姿を見た瞬間、湊の顔色が変わる。

考えるより早く、スマホを投げ捨て、狂ったように駆け出し――迷いなく水へ飛び込んだ。

湊は一気に泳ぎ、美琴の体を抱き寄せると、そのまま岸へ引き上げた。

「み、湊……げほっ……お姉ちゃんが……お姉ちゃんが私を……」

救い上げられた美琴は、弱々しく彼の胸にもたれ、咳き込みながら泣きつく。

九条湊の視線が、彼女の肩越しに泳ぐ。

水面には、二人が暴れた水しぶきだけ。――ほかの影が、ない。

紗月は?

その瞬間、九条湊はようやく気づいた。紗月も落ちている。

今まで味わったことのない恐怖が心臓を鷲掴みにし、血の気が引く。体の芯まで冷えた。

九条湊は美琴を乱暴に押しのけ、振り向きざまにもう一度、水へ飛び込んだ。

必死で探る。腕で水をかき、底へ潜り、指先で闇を掴む。

やっと触れたのは、柔らかな布――白い裾の端だった。

湊は意識を失いかけた紗月を胸に抱き締め、最速で水面へ押し上げ、岸へ引きずり上げる。

「紗月! 紗月!」

震える手で頬を叩こうとして、けれど傷つけるのが怖くて途中で止まった。紗月の顔は真っ青で、瞼は閉じたまま。息は、今にも消えそうに細い。

怖い。

こんなふうに怖いと思ったことが、ない。

そのとき――湊は気づいた。

濡れた高級スーツのジャケットに、べったりと赤が滲んでいる。

視線が硬直したまま、その赤の先を追う。

そして――紗月の下へ。

白いスカートの裾から、どろりとした赤がじわじわと広がり、地面に、絶望の花みたいに滲んでいく。

その瞬間、九条湊の世界は崩れ落ちた。

「紗月!!」

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