第92章

彼女は鉛筆を置き、顔だけを振り向けた。冷えた瞳に、計算されたような困った笑みを浮かべ、彼の芝居に合わせる。

「旅行は遠慮しとく。アトリエが神谷グループの案件を受けたばかりだし、パリのコンペも初稿が山場なの。どうしても手が離せない」

一拍置いて、眉をわずかに寄せる。指先でこめかみを押さえ、疲れたふりをした。

「それに、最近どういうわけか、ふらふらして気持ち悪いの。体調があんまりよくなくて……正直、動く元気もない」

「え、めまい?」九条湊の声色が一気に変わる。「無理して描きすぎたんじゃないか? 家庭医を呼ぼうか、診てもらったほうが――」

「大丈夫。少し休めば平気よ」

一ノ瀬紗月の口調...

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