第1章 身体検査
実の両親のもとへ引き取られるその日、神崎結菜は三年間暮らした使用人部屋で、わずかな荷物をまとめていた。
扉の向こう、リビングから養母・沢渡恵子の甲高い声が響く。聞こえないはずがないとでも言うように。
「そもそも当時、人を取り違えなければ、神崎結菜がうちで何年もいい思いできたはずないでしょ? さっさと出て行ってくれたら清々するわ!」
「お母さん、そんな言い方しないで」
沢渡詩織の声は柔らかく、どこか笑いを含んでいる。
「妹はこの数年、何度も私に輸血してくれたし、役には立ったよね」
「当たり前でしょ! あんたたちが同じ希少血液型だったから、あのとき私もお父さんも間違えたんだもの!」
沢渡恵子が茶碗を乱暴に置いた音。声には娘を思う痛みが滲んでいた。
「あの子が沢渡家で贅沢してる間、私の大事な娘は外で病気で苦しんでたと思うと……胸が針で刺されるみたいに痛い!」
「もう、お母さん。落ち込まないで。世界トップクラスの名医サルスが、私の変な病気の治療法を見つけたって言うじゃない。もうすぐ治るよ!」
詩織は数言なだめ、わざとらしくため息をついた。
「ただ心配なのは妹。実の両親がすごく貧しいって聞いたの。少しお金を渡したほうがいいかな……餓死なんてされたら、さすがに……」
「何言ってんの! 沢渡家でただ飯ただ住まい、散々得したでしょ。第一、ああいう貧乏人は一度絡みつかれたら離れないの。沢渡家の格が下がるだけ!」
恵子は鼻で笑い、詩織の手の甲をぽんぽんと叩いた。
「詩織は本当に優しいわね。こんなときまであの子のこと考えるなんて。真司、そう思わない?」
「おっしゃるとおりです。詩織は優しくて気配りができる。僕、林川真司が妻にすると決めた人です。林川家の女主人に相応しいのは彼女だけですよ」
林川真司が穏やかに相槌を打つと、詩織が照れたふりで小さく咎める。神崎結菜は扉の内側で、そのやりとりを聞きながら口元を嘲るように吊り上げた。
八年前。沢渡家は林川家との縁談を早く決めたくて、簡単な血液検査だけで、結菜を「失くした娘」だと決めつけた。
彼女と施設の院長がどれだけ説明しても聞く耳を持たず、焦るように沢渡家へ連れ帰った。
だが程なくして、本物の令嬢――沢渡詩織が見つかった。
詩織は外で苦労を重ね、しかも稀な奇病まで患っていた。少しぶつけただけで大出血し、命の危険すらある。
だからこそ、自分という「身代わり」は、彼女の移動式血液パックにされたのだ。
思い至り、結菜は目を閉じる。表情は冷え切っていた。
この数年、沢渡家で受けたのは冷たい視線ばかり。衣食住は使用人以下。
詩織はあの手この手で彼女を弄び、二、三日おきに「具合が悪い」と言って採血させた。直後には笑いながら血袋をゴミ箱へ投げ捨てる。
かつては過保護なほど優しかった真司も、詩織が戻るやいなや婚約をあっさり変更し、陰では何度も「秘密の愛人になれ」と匂わせてきた。
吐き気がした。
だが数日前、実の両親が沢渡家に連絡を入れ、詩織の病にも治療法が見つかった。輸血は不要になった。
そして何より――沢渡家に留まる最大の目的は、すでに果たしていた。
やっと、この家から出られる。
結菜は深く息を吸い、洗い褪せたキャンバス地のバッグを背負って扉を開けた。
リビングの喧騒が、ぴたりと止まる。
真司は反射的に彼女を見た。瞳の奥が読み取れない。
認めたくはないが、神崎結菜には多少の重みがあった。何より、顔が――いやらしいほど男を引き寄せる。
だが、どれほど美しくても沢渡家の本物の娘ではない。賢い選択がどちらかなど明白だ。
結菜が以前、「都合のいい提案」を拒んだときは、やけに清廉ぶっていた。今頃は上流の贅沢から田舎へ逆戻り。後悔で腸が煮えくり返っているに違いない。
真司の目に、薄い得意げな光が走る。
「送ってやろうか? 高級車に乗れるのも、たぶんこれが人生最後だぞ。田舎に帰ったら、どうせ……」
「真司!」
詩織が顔色を変え、こっそり彼の腕をつねる。作り笑いで結菜を見る。
「田舎の貧しい人って、成金嫌いでしょ? 高級車で帰ったら目立って、かえって危ないかも。でも最後に一回くらい味わいたいなら、真司と私で――」
「結構」
結菜は唇をわずかに上げ、小道具でも見るような目で言い捨てた。
「潔癖なの。ゴミ車には乗らない」
真司が固まる。
「……は?」
「日本語が通じない?」
冷笑しつつ眉を上げ、視線を彼の向こうへ滑らせて詩織に落とす。
「ゴミの回収してくれてありがと。宝物みたいに抱えてるあたり、あなたも筋金入りね」
「あなた……!」
真司がようやく理解し、顔が赤黒く染まる。詩織は瞬時に目を潤ませ、弱々しく彼の胸に寄りかかった。
「私たち、心配してあげてるのに……どうしてそんな……」
「詩織がどれだけ気を遣ってると思ってるの? それを罵るなんて!」
恵子が娘の涙に火がつき、爆発する。
「やっぱり田舎者! 骨の髄まで躾がなってない!」
「躾がある人間は、昼間から猿芝居を見せたりしないわよ」
結菜は鼻で笑い、ポケットから硬貨を一枚取り出して恵子の足元へ放った。
「投げ銭。受け取って」
「……っ!」
恵子は顔を真っ赤にし、言葉を失う。
結菜は相手にする気もなく玄関へ向かう。ドアノブに手をかけた、そのとき。
背後から詩織の声が飛んだ。
「待って!」
数歩で追いすがり、すぐに偽りの笑みへ戻る。
「神崎結菜、私のルビーのネックレスがなくなったの。帰るのはいいけど、荷物を見せて。調べさせて」
またこれか。
結菜は冷たく笑い、感情の読めない目を向ける。
この数年、詩織は何度この手の濡れ衣を着せたことか。
案の定、恵子が条件反射のように跳ねる。
「詩織のネックレスを盗むなんて! 貧すれば鈍するってやつね! 今すぐ出しなさい!」
詩織もため息をつき、心底困ったような顔を作る。
「妹、これから大変なのは分かるけど……あれは私の一番大切なネックレスなの。1000万以上するのよ? それでも盗むの?」
そして、慈悲深いふりで続ける。
「でも……姉妹だったんだし、私は責めたくない。今、素直に認めて。怒らないから。お金がないなら、ネックレスをあげても――」
「詩織は本当に度量があるわ!」
恵子が目を吊り上げ、今にも噛みつきそうに睨む。
「自分で出せばいいのよ。ここで荷物をひっくり返すことになったら、みんなの顔が立たないんだから!」
捜させるのが怖いとでも思ってるのか。
結菜は眉を上げ、キャンバスバッグを床に置いた。声は驚くほど淡々としている。
「どうぞ。好きに見て」
詩織は一瞬戸惑ったが、すぐにしゃがみ込んで荷物を漁る。
中に入っていたのは、結菜がバイト代で買った安い服が数枚だけ。沢渡家の物は一つもない。高価なネックレスなど、あるはずもない。
――どうして?
夜明け前、自分の手でバッグの内ポケットに押し込んだはずなのに。
詩織が唇を噛み、苛立ちを隠しきれない。目を転がし、まだ諦めない。
「バッグにないなら、身体に隠してるんでしょ。神崎結菜、早く出して。ここまで大事にしなくても――」
「詩織、何を回りくどいことを」
真司が笑いながら、結菜に視線を貼り付ける。
「身体に隠してるなら、服を脱いで調べればいい。一枚ずつ脱がせれば、必ず出るだろ」
その声に滲む欲望が露骨すぎて、詩織は掌を爪で抉る。
「真司、それは……よくないよ……?」
「何が悪い? 知り合い同士だ。見たっていいだろ?」
真司は軽く笑い、なおも結菜を舐めるように見た。
「神崎結菜、脱げないなら、盗んだってことだぞ!」
