第4章 病院へ行く
周藤は、神崎結菜が病院に寄りたいと聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮んだ。
結菜様はどこか儚げで、触れれば壊れてしまいそうなほど細い。まさか——沢渡家で何かされて、身体を悪くしたのでは。
このことも必ず本邸へ報告しよう。栄養士だって追加で手配して、しっかり滋養をつけさせなければ。
そんな思いが声に滲んでしまう。
「どこか具合でも? すぐ引き返します」
その語気で、結菜は彼の誤解に気づいたらしい。ふっと笑って首を振る。
「周藤さん、私は大丈夫。北凌総合病院に、会っておきたい人がいるの。出る前に、最後に顔を見ておきたくて」
周藤はようやく息を吐いた。体調不良ではなく、見舞い——それも、縁を大事にする理由だ。
胸の奥がじんと温かくなる。
沢渡家のような濁った空気の中に置かれても、結菜様は品性を失っていない。これこそ神崎家のご令嬢の器だ、と。
周藤はすぐにハンドルを切り、アクセルを踏み込む。車は北凌総合病院へ向けて滑り出した。
結菜の希望で、周藤は駐車場で待機することになり、彼女は一人で院内へ入った。
病院の最上階、院長室。
数回、控えめにノックする。中から張りのある声が返ってきた。
「どうぞ」
結菜が扉を開けると、室内の男が弾かれたように立ち上がり、ぱっと表情を明るくした。
「先生! お見えになるなら一言いただければ——!」
北凌総合病院の院長・宇佐美誠。四十を越えた顔に金縁眼鏡、こめかみに白いものが混じっている。その男が、若い結菜に対して過剰なほど恭しい。
最初からそうだったわけではない。
何年も前の手術——それが、宇佐美の認識を根こそぎ変えた。
当時、結菜は二十にも満たなかった。偶然出会った彼女は、宇佐美が長く詰まっていた病理の論点を、まるで雑談のような数言でほどいてみせたのだ。
次に学会で再会したとき、彼は知る。
その若者が、医療界で“サルス”と呼ばれる謎の大物だということを。
それから宇佐美は粘りに粘って、ようやく教えを請い、以来ずっと「先生」と呼び続けている。
結菜は形式を嫌う。ソファへ腰を下ろすと、淡々と言った。
「やめて。人に見られたら面倒」
「は、はい……先生。いえ、神崎さん。承知しました」
宇佐美は慌てて言い直し、向かいに座る。
「神崎さん、本日は大事なお話ですか? それとも、以前の研究に進展が——」
結菜は隠さず答えた。
「沢渡詩織の症状は、もう輸血で抑える段階を過ぎた。長年の研究も、やっと形になる。病自体は複雑じゃないけど特殊で、時間がかかった。でも、もうすぐ終わる」
結菜が沢渡家で耐えてきたのは、詩織の症状を至近で観察するためだった。
発症当初は重く、蒼海市どころか国内にも類似例がない。薬と輸血・血液交換に頼る保存的治療を繰り返すしかなかった。
だから結菜は身分を伏せ、研究のために沢渡家へ残った。
宇佐美は深く頷き、感慨を込めて言う。
「ここまで抑えられたのは、神崎さんのご尽力あってこそです。治療法は正式にまとめ、運用に乗せます。同じ患者さんの助けにもなるでしょう」
一通り話が落ち着いたところで、結菜は本題へ切り替えた。
「宇佐美院長。私、蒼海市を離れる。だからお願い——特別VIP病棟の、あの老人を見ていてほしい」
宇佐美の目が大きくなる。
「え……神崎さんが? 突然ですね」
結菜が気がかりなのは、その老人だけだ。姓は不破。
半年前の冬、路上で倒れていたところを彼女が見つけた。搬送時、脳内の血腫が神経を圧迫していると診断され、危険な状態。緊急処置を施したのも結菜で、以後の治療費・入院費もすべて彼女が負担してきた。
結菜は淡く笑い、念を押す。
「費用はこれからも口座に入れる。容体に何かあれば、すぐ連絡して」
蒼海市で信じられるのは宇佐美だけ。預けるなら、この人しかいない。
宇佐美は顔を引き締めたまま、慎重に尋ねる。
「神崎様。この半年、十分以上のことをされています。この先も……一生、面倒を見るおつもりですか」
結菜は小さく息を吐いた。
「医者は心じゃなく、行いで語ればいい。助けられるなら助ける」
年老いて、独りで、貧しい。手術費など出せるはずがない。見殺しにできなかった——それだけだ。
宇佐美は言葉を飲み込み、静かに頷いた。
「……分かりました。不破老先生は私が責任を持って見ます。安心してください」
「ありがとう。じゃあ、不破爷爷に会ってくる」
院長室を出るとき、宇佐美が自ら見送った。
結菜はエレベーターで下り、特別VIP病棟の階で降りる。
角を曲がった瞬間、正面から来た男とぶつかりそうになった。
冷えた表情。引き締まった輪郭。服装はごく普通なのに、近づくだけで空気が張りつめる。生まれつき人を従わせる“上”の気配が、何気ない立ち姿から漏れていた。
結菜は反射的に一瞥する。
——それだけ。
深追いもせず、すれ違いざまに通り過ぎ、病室へ向かって歩みを早めた。
