第6章 真の身分?
なぜだろう。特別VIP病棟を出た瞬間、神崎結菜は胸の内にぽっかり穴が開いたように感じた。
その感覚は、あのとき――児童養護施設を出た日のそれに、よく似ている。
新しい暮らしへの期待がある一方で、置いていく誰かのことが、どうしても切り離せない。
不破総一郎と知り合って、まだ半年。なのに自分でも驚くほど、結菜は彼を「家族みたいなものだ」と思ってしまっていた。
ぼんやりと考え込んでいると、周藤の声が耳に入る。
「結菜様、参りましょう。旦那様と奥様がお待ちでございます」
周藤の声に引き戻され、結菜は小さく頷いた。
「うん」
車に乗り直す。
窓の外では、街の高層ビル群が少しずつ遠のき、木々の連なりへと景色が移り変わっていった。見慣れた街並みも、記憶の端からゆっくり薄れていく。
蒼海市への気持ちは複雑だ。
好きではない。けれど、嫌いとも言い切れない。
どれほど走ったのか。ふたたび視界に高層ビルが戻ってきた。
ただし、蒼海市とは比べものにならないほどの煌びやかさ。
目に入るのは、どこもかしこも高級車だらけ。街そのものが贅を誇示しているみたいだった。
「結菜様、まもなくご自宅に到着いたします」
周藤が、外を眺める結菜にそっと声をかける。
車はほどなく、ひとつの広大な敷地へと吸い込まれていった。門前にそびえるのは、黒い棘のようなアイアンゲート。
中へ入ると、威容ある白い洋館が現れる。そこまでもまだ距離があり、伸びる道の両側には淡いピンクの薔薇がずらりと咲いていた。
古代ローマ様式の荘園。浪漫と荘厳さが同居する、気高い気配。
この国で、寸土寸金の土地に千畝もの庄園を持てる家が、ただの金持ちなはずがない。
ここまで来てようやく結菜は悟る。
自分の生家は、「裕福」なんて言葉では収まらない。
車は本館の正面で止まった。
そこには夫婦が立っている。どこか見覚えがある気がするのに、思い出せない。
周藤が降りて回り込み、ドアを開けながら静かに告げた。
「結菜様、到着でございます」
結菜ははっとして、車を降りる。
目の前の貴婦人は、柔らかな眉眼に、わずかに下がった目尻。唇の端に淡い弧を描き、その眼差しには期待が溢れていた。
そして、結菜を見た瞬間――その貴婦人は、こらえきれないように声を震わせた。
「……この子。結菜だわ。私の若い頃と、そっくり……」
結菜も理解する。目の前の二人が――実の両親だ。
唇が動きかける。けれど、何を言えばいいのか分からない。
しかし神崎清美は、そんなことは気にも留めず、先に結菜を抱きしめた。痛いほどの愛しさを乗せて。
「結菜……長い間、外で苦労させたわね。全部、お父さんとお母さんが悪いの」
突然の温もりに、結菜の身体はこわばった。返す言葉が見つからず、ただ黙って抱かれてしまう。
そのとき、隣の神崎恒雄が先に我に返り、静かに促した。
「清美。まずは中へ入ろう。話は、ゆっくりでいい」
清美は名残惜しそうに腕をほどき、結菜の手を取る。
「そうね……そうよね。私ったら。まずは入ろう、ね」
手を引かれながら、結菜は思う。
――想像していた親とは、ずいぶん違う。
沢渡家の人間が言っていたような「貧しい家」どころか。
桁が違う。
屋敷に入ると、恒雄が改めて家のことを話し始めた。
「結菜。周藤から聞いていると思うが、お前には兄が二人いる。詳しいことは追々でいい」
「うちは少し蓄えがある。必要なことは何でも言いなさい。金で解決できる問題なら、問題じゃない」
数秒で、結菜は「名門の家に戻ってきた」という現実を受け入れていた。
そして周藤が、さりげなく付け足す。
「結菜様。神崎家は、国内でも指折りの名家にございます」
指折りどころか、トップクラスらしい。
迷子のように流れ落ちていた年月が、人生で一番苦しかったのだと、今さら分かる。
それでも結菜は、どうしても気になって尋ねた。
「……でも、お父さん、お母さん。私の出生地が……霞ヶ沢なのは、どうして?」
霞ヶ沢。沢渡家が「寂れた僻地」と呼んだ場所。
清美は少し照れたように笑って、説明する。
「それはね、私のせいなの。当時お父さんが忙しくて、私は自走旅行が好きだったでしょう? 霞ヶ沢を通ったとき、山道がひどく揺れて……それで刺激になって早産しちゃって。霞ヶ沢であなたを産んだのよ」
結菜は小さく頷いた。
なるほど。これで辻褄は合う。
短い接触でも分かる。実の両親は、少なくとも「付き合いづらい人たち」ではなさそうだ。
そのとき、二階から足音がした。
眠たげな顔で降りてきたのは、金髪の男――神崎徹。
鋭い眉に、野性味のある顔立ち。歩き方は気怠げで、どこか不遜。頭を少し下げたままでも、桀骜さが隠れない。
ロビーの中心に立つ結菜を見た瞬間、彼の目が見開かれた。
清美にそっくりな、その顔を見たせいだろう。
「父さん母さん。この子が妹?」
言い終えるより早く、徹は階段を駆け下りてきた。数歩で結菜の目の前へ。珍しい玩具でも見つけたみたいに、上から下までじろじろと観察する。
瞳の奥には、抑えきれない喜び。
結菜が戸惑って清美を見ると、清美がすぐ紹介した。
「二哥よ。神崎徹」
結菜は素直に呼んだ。
「兄さん」
その一言だけで、徹はぱっと満面の笑みになる。
「見た? 俺が用意したプレゼント。特製のカスタムカー。気に入った? 軍需素材使って組んだんだ。安全性は保証する」
期待に目を輝かせて、返事を待つ。
結菜は、あの灰色のくたびれたトラックを思い出して、少しだけ気まずく笑った。
「……うん。気に入った。好き」
徹は大喜びだった。尻尾があるなら、今にも天まで跳ね上がりそうな勢いで。
「よし! またいい車、見つけたら送る!」
血のせいなのか、何なのか。
ほんの短い時間なのに、結菜は今まで知らなかった「家族」を感じていた。
恒雄と清美も、少しずつ家のことを説明し、結菜が早く馴染めるように気を配ってくれる。
やがて夜が深まり――玄関の扉が開いた。
スーツ姿の端整な男が、紙袋を山ほど提げて入ってくる。高級ブランドの品や宝飾品がちらついた。
神崎景介は息を切らし、焦るように言った。
「父さん母さん、妹は? 俺、織田香織も連れて帰ってきた」
