第7章 単純な役ではない
リビングで談笑していた面々は物音に気づくと、示し合わせたわけでもないのに一斉に玄関へ視線を向けた。
目に入ったのは、仕立てのいいオーダースーツに身を包んだ神崎景介だった。金縁の眼鏡が、彼の落ち着いた気品をいっそう際立たせている。
けれど、纏う空気はひどく冷たい。黙っているだけで、彫りの深い端正な顔には一切の感情が浮かばない。青い瞳は底が見えず、覗き込めば吸い込まれそうだった。
ただ、急いで駆け戻ってきたのだろう。額に細かな汗が光っていて、それが逆に――彼が生身の人間であることを思い出させた。
神崎結菜は直感する。
この「兄」は、克己復礼の古典派。堅物の、いわゆる老古板タイプ――のはずだ。
「兄さん」
結菜が先に声をかけると、景介ははっとした顔になり、そのままぱっと笑みを咲かせた。
「俺は神崎景介。これから何かあったら、遠慮なく言ってくれ」
……想像していたより、ずっと柔らかい。
そのとき神崎清美が立ち上がり、玄関の二人に手招きした。
「いつまで入口で突っ立ってるの。夕飯、もうすぐできるわよ。ほら、織田香織も入って」
結菜はそこで、景介の後ろにいる女に目を向けた。
織田香織は妖艶という言葉がそのまま当てはまる美貌をしていた。美しいのに、どこか攻撃的。きゅっと吊り上がった狐のような目が、人の心を絡め取ろうとしているみたいで――本能が警戒する。
この二人が並ぶと、妙にちぐはぐだ。
景介は手にした紙袋を抱えたまま中へ入り、結菜の前にどさどさと置いた。
「結菜、俺が選んだ。どうだ? 気に入らないのがあったら言ってくれ」
積まれていく贈り物の山。
それを見た香織の胸に、言葉にできない焦りがじわりと滲んだ。
――今日戻ってきたばかりの妹に、こんな短時間でこの扱い。
そのプレゼントの格にしたって、正真正銘の恋人である自分ですら、受けたことのない厚遇だ。
香織はすっと景介の腕に絡みつき、蜜みたいに甘い声を作る。
「景介さん、あなたが一生懸命選んだんだもの。結菜ちゃんも、絶対に嬉しいよね?」
言葉は柔らかいのに、目の奥には嫉妬の色がわずかに差している。けれど香織は、それを完璧に隠していた。
なのに、結菜の胸の奥がざらついた。
結菜は香織の視線を真正面から受け止め、にこりと笑う。
「もちろん。兄さんがくれるものなら、何だって好き」
その瞬間、確信が落ちた。
香織は自分を――競争相手として見ている。
空気が微妙に張ったところで、神崎徹がさっと割り込む。
「はいはい、その辺にしとけ。飯が冷める。荷物は置いて、先に食べよう」
香織は内心の警戒を隠したまま、笑顔を貼りつける。
「結菜ちゃん、今日帰ってきたばかりでしょ? 私が案内するね」
そう言って距離を詰めてくるが、わざとらしい親しさが逆に不自然だった。目的が別にある、と肌が告げている。
結菜は悟られない程度に半歩ずらし、香織と間合いを取った。
席につくと、香織がわざと明るい話題を作る。
「結菜ちゃん、今日帰ってくるって私、急に聞いたから……慌てて来ちゃって。ちゃんとした手土産がなくて、ごめんね」
結菜は軽く微笑む。だが声はどこまでも距離がある。
「織田さん、気にしないで。無理してもらわなくていい」
あえて、よそよそしく呼ぶ。
案の定、香織の笑みがほんの一瞬だけ固まった。けれどすぐに取り繕い、さらに続ける。
「大丈夫。ちょうどこの前、未央のオーダージュエリーを奮発して頼んだの。届いたら結菜ちゃんにあげるね。私の気持ち」
「未央?」
結菜の眉が、わずかに寄る。
その反応を見て、香織は得意げに唇を吊り上げた。
「ジュエリー界のトップデザイナーよ。すごく神秘的で……値段が高いだけじゃなくて、そもそも手に入らないの」
結菜は赤ワインをひと口含み、グラスを静かに置く。
「未央なら知ってる。だけど織田さんが依頼できたのは意外ね。未央は、お金だけ出すお客さんは受けない。宝石を分かっていて、デザインを尊重できる人じゃないと」
香織の得意げな色がさらに濃くなった。
「本人は難しくても、下のアシスタントに話を通したの。手付金も払ったし、あとは作ってもらうだけ」
堂々と、裏口を自慢するみたいに。
結菜の目が静かに翳る。
――なるほど。そういう手を使っていたわけだ。
それを武勇伝みたいに語れるあたり、救いようがない。愚かにもほどがある。
香織は畳みかけるようにスマホを取り出し、画面を結菜の前へ差し出した。
「ほら、これ。私が頼んだデザイン案。結菜ちゃんに似合うと思うの」
その瞬間、結菜の記憶が繋がった。
三か月前。自分のもとに届いた一式のジュエリーデザイン依頼。
依頼主は傍若無人で、理念を踏みにじるタイプだった。即ブロックし、スタジオにも受注拒否を通達した案件。
ところが没案が別の買い手に拾われ、数点だけ修正依頼が来た。アシスタントのリサから連絡を受けたが、忙しくて深く考えなかった。
――「別の買い手」など、ただの隠れ蓑。
同じテーブルで食事をし、その相手が兄の恋人。
滑稽すぎて、笑える。
結菜は一瞥しただけで何も言わなかった。
そしてテーブルの下でスマホを取り出し、指先で数度操作して、何事もなかったように伏せた。
数秒後。
香織のスマホが、場違いな着信音を響かせた。
香織が出た途端、顔色がみるみる変わる。甲高い声が食卓に突き刺さった。
「は? クビ? じゃあ私のオーダーはどうなるの? 話、ついてたでしょ! 未央が断るって何よ! 手付金払ったのに、私を犬みたいに――!」
怒りで理性が飛び、取り繕う余裕すらない。
景介の瞳がすっと細くなった。わずかな不快が滲む。
結菜は唇だけで笑い、淡々と言った。
「織田さん、未央のデザインは手に入らなかったみたいね。残念」
景介の空気が変わったのを察し、香織は慌てて笑顔を作る。
「残念だけど……大丈夫。結菜ちゃん、また別のものを贈るから」
笑みは引きつり、声も硬い。テーブルの下で握りしめた拳が、白くなるほどだった。
そんな偶然があるはずない――香織の目がそう叫んでいた。
食事が終わる頃には、香織の機嫌はすっかり沈んでいた。彼女は早々に理由を作り、神崎家を辞去した。
神崎家の屋敷を出ると、香織は周囲を警戒するように視線を走らせ、非通知の番号へ電話をかける。
繋がるなり、声を低く落として歯噛みした。
「神崎景介の妹……あれ、簡単な相手じゃない。気をつけて」
