第8章 あなたはまたどんな出自だ?

「結菜、起きてる?」

神崎清美は結菜の部屋の前に立ち、そっと――壊れものに触れるみたいに――ノックした。声の調子もできる限り柔らかくする。

扉の向こうの気配に、神崎結菜はぼんやりと上体を起こした。

見慣れているようで、まだ他人行儀な部屋。自分がもう神崎家にいるのだと理解するまで、ほんの少しだけ時間が要る。

窓辺からこぼれた朝日が床を伝い、部屋の隅々まであたたかく照らしていた。

結菜は背筋を伸ばし、反射的に枕元のスマホを手探りする。

8:30。

こんなにぐっすり眠れたのは、いつぶりだろう。

沢渡家にいた頃は、生活リズムの主導権なんてなかった。使用人たちの動きに合わせるしかなく、まだ暗いうちから騒がしさで叩き起こされ、夜は深夜になってようやく眠れる。

だからこそ、この一夜は胸の奥まで満たされるようで――妙に、嬉しかった。

部屋の中から物音がしないのが不安だったのか、外で神崎恒雄が焦ったように声をかける。

「結菜、具合でも悪いのか? もう少し寝るか?」

声が少し大きい。すかさず清美が、ぺしんと夫の腕を叩いた。

「声が大きいってば。結菜が起きてるか分からないでしょ」

そのやり取りで、結菜の意識がすっと現実に戻る。慌てて声を張った。

「お父さん、お母さん、起きてるよ。どうしたの?」

「よかった」

清美がほっと息をつく気配がした。

「朝ごはん、家の人が用意してるの。起きたら降りてきてね。下で待ってるから」

「分かった、お母さん」

結菜はきっぱり返事をして、布団を跳ねのけた。

身支度を整えて階下へ降りると、家族はもう席に着いて待っていた。

座るなり、神崎徹がやけに甲斐甲斐しく、温めのミルクを注いで手元へ置く。

そして神崎景介も負けじと、ワイルドベリーのコールドブリュー・ボウルをすっと差し出した。

「結菜、これもいける」

二人が交互に世話を焼いてくるものだから、結菜は面映ゆさに目を瞬かせる。こんな扱い、慣れていない。

そこへ清美が、探るように切り出した。

「結菜……せっかく戻ってきたんだしね。お披露目の晩餐会を開こうかと思ってるの。上の人たちにも、あなたの存在をきちんと知ってもらいたいのよ。どう?」

結菜が行方不明だった年月が長いせいで、外では神崎家は息子が二人だけだと思われている。両親にとっては、必要な儀式なのだろう。

景介も手を止めて頷いた。

「戻ってきたなら、知らせたほうがいい。母さんの言うとおりだと思う」

けれど結菜は、間髪入れずに首を振った。

「お母さん、嫌。必要ない」

家族のもとへ帰れた。それだけで十分だ。外向けの飾りは要らない。

発表しようがしまいが、自分が神崎家の人間である事実は変わらない。

清美は落胆を隠しきれない顔になる。それでも食い下がった。

「でもね、結菜。晩餐会がないと、あなたの立場が伝わらないでしょう? 今後、何かあったとき不便かもしれないの」

「人前に出るの、好きじゃない。静かにしていたいの」

結菜の声は柔らかいのに、芯は動かない。

清美は一度唇を噛み、やがてそれ以上は言わなかった。

朝食のあと。

結菜は清美と温室で、植木の手入れを手伝っていた。

そこへ執事の鐘ヶ江がやって来て、控えめに告げる。

「奥様、白鳥様がまたご来訪でございます」

清美はじょうろを置き、穏やかに返した。

「美咲を先にリビングへ通して。私たちもすぐ行くわ」

鐘ヶ江が下がると、清美は結菜を連れて本館へ向かいながら説明する。

「美咲はあなたと同い年くらいでね。優しくて素直で、いい子なの。私が家にいるとき、よく顔を出してくれるのよ。今日、あなたも会っておいたらいいわ」

その口ぶりからして、清美は白鳥美咲をかなり気に入っているらしい。

結菜は言葉を挟まず、小さく頷いて後ろを歩いた。

リビングに入ると、美咲は行儀よくソファに座っていた。

清美の姿を見つけた途端、ぱっと立ち上がり、親しげに甘えた声を出す。

「清美伯母様、またお邪魔しちゃいました。ずっと会えなくて、寂しかったです」

そのまま抱きつく勢いは、まるで実の娘みたいだ。

結菜は少し距離を置いた位置から、静かに観察する。

橙色のワンピースがよく似合っていて、若さの眩しさがある。小鹿みたいな目はうっすら赤く、幼さの残る顔立ち。美人というより、可愛らしさで好感を取るタイプだ。

美咲はようやく結菜に気づいたふうに目を丸くする。

「清美伯母様、その方……娘さんですか?」

結菜は微笑んで名乗った。

「初めまして。神崎結菜です」

すると美咲はテーブルの上の礼盒を持ち上げ、にこにこと差し出す。

「突然で、いい物を用意できなくて……腕輪です。気持ちだけ」

そう言いながら、断る隙を与えず、箱を結菜の手に押し込んだ。

――主役は自分。結菜は客。

そんな空気が、薄い布みたいに部屋を覆う。

清美が気を利かせて受け取り、笑う。

「美咲、来てくれるだけで十分なのに。じゃあ私も、今度新しいアクセサリーを――」

だが美咲は、わざとらしく首を振った。

「伯母様、今までたくさん頂いてます。新しいのは結菜さんに。外で苦労したんですもの」

その口調が、結菜の本能をちくりと刺す。

甘いのに、毒が混じっている。覚えがありすぎる匂いだ。沢渡詩織の、あの笑い方。

美咲は止まらない。

「結菜さん、沢渡家って蒼海市では、そんなに――って聞いて……私、てっきり……」

「白鳥美咲、どういう意味だよ」

徹が割り込むように叱りつけ、空気を断ち切った。眉間に不快がにじむ。

「結菜が沢渡家に長くいたから、上品じゃないって言いたいのか?」

言葉にしていないのに、言外の含みは確かにそこにあった。図星を刺され、美咲の笑みが引きつる。

けれど結菜は、さらりと問い返す。

「白鳥さんは家柄で人を測るの? なら私も失礼して聞くけど、あなたの出自は? 誰より上なの?」

美咲の顔色がみるみる悪くなり、唇が震える。言葉が出てこない。

白鳥美咲は不破家の老執事の娘で、父の功で不破家に面倒を見てもらっている立場にすぎない。

そして、突然神崎家に戻ってきた実の娘――神崎結菜に対して、正体の分からない危機感を抱き始めていた。

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