第9章 毒?

蒼海市、病室。

「とにかく俺は知らん。お前はあの子と結婚しろ」

不破蓮はベッド脇に立ち、駄々をこねるような不破総一郎を静かな目で見下ろした。

「俺も言ったはずです。素性の知れない見ず知らずの女は娶りません」

「素性の知れないだと? あの子は心が綺麗で、顔もいい。お前の周りで年がら年中ご機嫌取りしてる令嬢どもより、よほどマシだ!」

言い切ってから、不破総一郎は盛大にため息をつく。

「お前もいい歳だ。傍に伴侶が必要だろ。俺だってお前のためを思って――」

不破蓮はまるで取り合わない。

話題を切るように淡々と言った。

「医者も大事ないと言ってました。荷物をまとめてください。俺が連れて帰ります」

不破総一郎の背筋がひやりとする。

ここで決めきらなければ、もう機会がない。

理屈も情も通じないと悟ったのか、不破総一郎はぷいと顔を背けた。

「結婚に同意しないなら、帰らん」

病室が、しんと静まり返る。

半日ほどに感じる沈黙のあと、不破総一郎は我慢できずにちらりと横目で覗いた。

不破蓮はスマホを手にして、通話口へ短く吐き捨てる。

「入れ」

意味を掴む前に、病室の扉が押し開けられた。

屈強な護衛が二人。ベッドの足元、左右に並んで立つ。

「不破代表」

不破蓮は視線を落とし、不破総一郎の様子見の目とぶつける。声は落ち着き払ったまま、最後通牒。

「自分で帰りますか。それとも縛って連れて帰りますか」

「貴様……!」

不破総一郎は怒りで顔を真っ赤にし、起き上がって殴りかかろうとした、そのとき。

枕元のスマホが鳴った。

画面に躍る名前――神崎結菜。

不破総一郎の目がぱっと輝く。怒りなどどこかへ消え、待たせるわけにはいかないとばかりに慌てて通話を取った。

スピーカーに切り替えた瞬間、澄んだ声が病室に響く。

「おじいちゃん、こっちは大丈夫。何も問題ないよ。おじいちゃんの具合はどう?」

心配をかけたくないのだろう。結菜は回りくどい前置きもなく、真っ先に報告してきた。

「大丈夫だ、大丈夫だ。医者も静養すればいいと言っとる」

不破総一郎は歯を見せて笑い、声までやけに優しい。

「お前のおかげだぞ」

「よかった……」

向こうで、ほっと息をつく気配。

結菜はすぐに続けた。

「何かあったら、遠慮しないで連絡してね。困ったことがあったら、私ができることはするから」

年寄りが病気で、しかも身の回りに誰もいないかもしれない。そう考えただけで胸が痛むのだろう。

不安が募ったのか、結菜は慎重に尋ねる。

「今、おじいちゃんのそばに、お世話してくれる人はいる?」

不破総一郎は目の前の孫を見上げ、拗ねた子どものように鼻を鳴らした。

「うちの息子も孫も、お前みたいに可愛げがない。揃いも揃って、この年寄りを怒らせることしかしよらん」

結菜は情景を想像したのか、声が少しだけ曇った。

「……じゃあ、帝都市に来る? 私が面倒みるよ。最近そこまで忙しくないし」

不破総一郎は一瞬、言葉を失った。

「それは……お前の迷惑じゃないか? 結菜、お前は本当に優しい子だ。あの不甲斐ない孫より、何倍も――」

そう言って、わざと不破蓮へ視線を投げる。

不破蓮は反論しかけたが、不破総一郎の目に押し戻され、結局黙った。

結菜はくすりと笑い、優しく合わせる。

「大丈夫。私のこと、ほんとの孫だと思って。おじいちゃんが歳を取ったら、私がちゃんと面倒みるから」

その一言で、不破総一郎の機嫌は天まで跳ね上がった。

「よし! お前は俺の本当の孫だ! あの臭い小僧は、俺の生き死になんぞ気にしない。こんな孫を持って俺は運が悪い!」

不破蓮は口元を引きつらせる。

家出したのは総一郎本人だ。それなのに、薄情者に仕立て上げられている。

理不尽にもほどがある。

結菜の明るい声が続くたび、病室の重い空気は少しずつほどけていった。

不破蓮はまだ会ったこともない相手に、わずかな興味を覚える。

たった数言で総一郎をここまで上機嫌にできる人間など、そういない。

そのとき、受話口の向こうで別の声が割り込んだ。

「結菜、お父さんとお母さんとお散歩行かない?」

神崎清美の声。

時間だと察したのか、不破総一郎が話を締めにかかる。

「結菜、もういい。親御さんと仲良くしろ。俺も帝都市へ行ったら会いに行く」

「うん。時間ができたら、また電話するね」

通話が切れた。

同時に、不破総一郎の顔から笑みが消える。さっきまでとは別人のように不破蓮を睨み、せっかちに催促した。

「見たか。結菜は孝行者だ。お前みたいな孫がいて俺は頭が痛い。さっさと帝都市へ帰るぞ。この街はもう飽きた。結菜に会いに行く」

不破蓮はため息を飲み込み、宥めるように言う。

「爷爷、数日後に連れて帰ります。こっちは蒼海市の案件が残ってる」

「うるさい。出て行け」

不破総一郎は手を振り、冷たく追い払った。

「結菜と結婚もしないくせに、俺の前をうろつくな。顔を見るだけで腹が立つ。目障りだ」

そう言って寝返りを打ち、もう不破蓮を見もしない。

不破蓮は病室を出た。

総一郎に帝都市へ帰る気があるなら、それでいい。

まず連れ帰る。結婚の話は、結菜の名でしばらく宥めておけばいい。

一方その頃。

神崎結菜は神崎清美、神崎恒雄と三人で、自宅の荘園を散歩していた。

神崎清美は花々を指差しながら、由来を一つひとつ語っていく。普段は家にいることが多いせいか、こうした趣味がすっかり身についているのだろう。

少し後ろで神崎恒雄が微笑ましく見守っていた。

結菜にとって花そのものに興味は薄い。けれど、家族と肩を並べて歩く、この時間が嫌いではなかった。

今まで味わったことのない温もり。

ふと、神崎恒雄が遅れていることに気づく。

結菜が振り返った瞬間、彼は胸を押さえ、苦しそうに身体を折り曲げていた。

「お父さん!」

駆け寄ると、爪先と唇が青い。

「大丈夫だ。昔からの持病だ。心配するな」

神崎恒雄は手を振って宥めるが、結菜の直感が警鐘を鳴らした。

――この症状、毒に近い。

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