第1章

 プライベートクルーザーがゆっくりと岸に寄っていく。

 埠頭には黒のSUVが数台停まっていた。その先頭には、シャンパングラスを片手に首を長くしてこちらを窺う、スーツ姿の男が立っている。

 元夫の森田克裕だ。

 トップデッキから降りてきた私の手には、メイドから受け取ったばかりの箒が握られていた。息子の進がクッキーの皿をひっくり返してしまい、つい自分で片付ける癖が出てしまったのだ。

「ボス、あれ美由早じゃないですか?」

 背後にいた手下の一人が私を指差した。

 克裕は私を見て一瞬呆然とした後、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「やっぱりな。いずれ落ちぶれて、這いつくばって戻ってくると思ってたぜ」

「おいおい、マジでアイツじゃん」

 取り巻きの一人が冷やかす。

「森田、お前の元妻、今はクルーザーの清掃員かよ?」

「玉の輿にでも乗ったのかと思えば! 結局ボスの施しを求めて帰ってきただけかよ」

 克裕はシャンパンを吹き出しそうなくらい下品に笑った。そして私の行く手を遮る。五年ぶりに見る、その鼻持ちならない顔。

「美由早、ずいぶんと落ちぶれたな」

 彼は私を上から下まで値踏みするように見回し、安っぽい優越感に満ちた視線を向けた。

「N市を出て行くなんて啖呵を切るから、どれほどのことをしでかすかと思えば。甲板の掃除とはな」

 私は足を止め、滑稽なものを見るような目で彼を見つめ返した。

 かつて彼のご機嫌を取るために、私はいつも息が詰まるようなタイトスカートを穿いていた。

 だが今は妊娠中ということもあり、朋之は私の体を締め付けるような服を一切許してくれない。今羽織っている一見シンプルなカシミヤのコートも、ミラノの工房で仕立てられたフルオーダーメイドだ。

 この馬鹿どもには到底理解できないだろう。真の権力というものは、わざわざブランドロゴをひけらかす必要などないということを。

「どいてちょうだい、克裕」

 私は静かに告げた。

 彼は退くどころか、さらに距離を詰めてきた。

「そう意地を張るなよ。生活が苦しいんだろ? ちょうどいい、村木の息子のベビーシッターを探してたんだ。住み込みで飯付きだ。昔のよしみで、お前に回してやるよ」

 そう言ってポケットから名刺を取り出し、半ば強引に私の手へ押し付けてきた。

 その時、耳障りなブレーキ音が鳴り響いた。ピンク色のマセラティが、乱暴なドリフトをかまして埠頭に停まったのだ。

 赤いソールのハイヒールを履いた村木が、最新のエルメスのバーキンを腕に掛け、腰をくねらせながら歩いてきた。彼女の後ろには、泣き叫ぶ子供に手を焼いてノイローゼ気味のベビーシッターが続いている。

「克裕! 誰と話してるの?」

 サングラスを外した彼女は、私を見るなり濃いアイラインで縁取られた目を輝かせた。まるで傷ついた獲物を見つけた猟犬のような興奮だ。

「あらやだ。美由早じゃない?」

 彼女は口元を覆い、黒板を爪で引っ掻くような甲高い声でわざとらしく驚いてみせた。

「どうしてこんな所で掃除なんかしてるの? もしかして、帰りのチケットを買うお金もないわけ?」

「ハニー」

 克裕は彼女の腰に手を回し、恩着せがましく言った。

「ちょうど助け舟を出してやったところさ。陽翔の世話をさせようと思ってね。知っての通り、こいつは昔から家事だけは得意だったからな」

 村木は汚物でも見るような目で私を一瞥すると、声を潜めつつも周囲の全員に聞こえるような声で言った。

「この女が? 大丈夫なの? だってこの人、子供も産めない石女だって聞いたわよ。うちの息子に不幸がうつらなきゃいいけど」

 周囲からドッと嘲笑が湧き起こった。

 私は手の中の名刺と、目の前の反吐が出るような男女を交互に見つめた。五年前の屈辱が、今となってはたまらなく滑稽に思えてくる。

 私はゆっくりと腕を上げ、全員の目の前で、その名刺を克裕の持つシャンパングラスの中へぽいっと落とした。

 シュワシュワと泡が弾ける音とともに、紙片はみるみるうちにふやけていく。

「克裕」

 私の声は静かだったが、その一言で周囲は水を打ったように静まり返った。

「この船の名前、知ってる?」

 克裕の顔から笑みが消え、苛立ったように眉をひそめた。

「あぁ?」

 私は急ぐことなく左手を上げ、船側にある巨大なエンブレムを指差した。夕日に照らされ、血のような赤い光を放つその紋章――茨に絡みつかれたアイリスの花を。

「あれは『スカーレット・アイリス号』。光原一族のプライベート空間よ」

 私は背を向け、左手を甲板の手すりに添えた。

「さっき、私に仕事を紹介してくれるって言ったわよね?」

 振り返ると、そこには血の気を失った克裕の顔があった。

「港の責任者に聞いてみることをお勧めするわ。今夜、彼らが港全体を貸し切りにしてまで出迎えた『清掃員』が、一体誰なのかをね」

 言い終わるか終わらないかのうちに、銀髪に燕尾服姿の老執事が船室から小走りで現れた。

「奥様!」

 彼は私のそばまで来ると声をかけた。

 克裕と村木が驚愕のまなざしを向ける中、老執事は私の前で深く頭を下げ、恐縮しきった恭しい口調で告げた。

「車列が外でお待ちでございます。いつでもご出発いただけます」

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