第2章
馬車が止まった瞬間、心臓が喉から飛び出しそうになった。
恐怖からではない。興奮からだ。
「姫様、どうぞお降りください」
衛士長の声には同情の色が滲んでいた。どうやら私が怖がっているとでも思ったらしい。
滑稽だわ! 今すぐ飛び込んで「魔王様、お会いしに来ました!」と叫びたいくらいなのに。
私は深呼吸を一つし、わざと脚を震わせながら馬車を降りた。魔王城の大門は想像を遥かに超える迫力だった。高さ十メートルはあろうかという黒い鉄の門には、獰猛な魔族のトーテムが彫り込まれ、強烈な威圧感を放っている。
「こ……怖い……」
私は震える声で小さく呟いた。内心では歓喜の渦に包まれているというのに。
ついに私の魔王様にお会いできる!
石の廊下に重々しい足音が響く。私は護衛たちに囲まれ、玉座の間へと向かっていた。巨大な両開きの扉がゆっくりと開いた時、私は危うく笑い出しそうになるのを堪えた。
なんてこと。
目の前の光景は、ゲームのCGなんかより一万倍も衝撃的だった。高さ三十メートルはあろうかというゴシック様式の穹窿には、無数の輝く魔法水晶が吊り下げられ、ホール全体を夢幻のように照らし出している。
そのホールの最奥、何度も見慣れた黒曜石の玉座に、一人の男が座っていた。
私の呼吸が、一瞬止まる。
滝のように肩まで垂れる黒い長髪。冷淡にホールを見渡す真紅の瞳。神が彫り上げたかのような完璧な顔立ち。彼は豪奢な黒の礼服をまとい、長い脚を優雅に組み、片手で顎を支えている。その姿は気怠げでありながら、威厳に満ちていた——魔王・アシュラ。
私の……旦那様。
「アルカディア王国の第三王女、魔王陛下に拝謁いたします」
護衛長が恭しく告げた。
私は慌てて怯えた表情を作り、わざと身体の震えを大きくした。
魔王がゆっくりと玉座から立ち上がる。優雅……実に優雅だ。
空気中に、得体の知れない威圧感が漂う。
「お……大きい……」
私はわざと半歩後ずさり、瞳に臆病な涙をいっぱいに溜めた。
魔王は私の目の前で立ち止まり、私を見下ろした。
その真紅の瞳に、一瞬だけ意外そうな色がよぎる——どうやら、私の反応は彼の予想とは少し違っていたようだ。
「アルカディアの姫よ」
彼の声は磁性を帯びていた。
「そう恐れることはない。我は魔王だが、美しく勇敢な女性には、いつだって優しいのだ」
きた!
この台詞、ゲームで何百回も聞いた! これは魔王が気に入った女性にかける口説き文句よ!
私は力いっぱい瞬きをしてから、おそるおそる顔を上げ、か弱く答えた。
「魔王……様。私は両国の平和のために参りました。どうか……どうか、お手柔らかにお願いいたします」
魔王の目に、称賛の色が浮かんだ。
アシュラは、こういう「大義のために自身を犠牲にする」タイプの女性にめっぽう弱いのだ。
私はその隙に周囲を観察する。ホールには様々な高等魔族が立っていた——翼を持つダークエルフ、長身の魔人族、そして宙に浮かぶゴーストメイジが数体。
彼らは皆、物珍しそうに私を眺めているが、敵意はなく、むしろ軽蔑の色が濃い。
どうやら私の「無害」なイメージ作りは成功したようだ。
「陛下、この人間の姫は地下牢へ?」
一人の魔族の将軍が進み出て尋ねた。
私の心臓が、一瞬で喉元まで跳ね上がる。
もし魔王が「そうだ」と言えば、私の計画は練り直しになってしまう。
「無用だ」
魔王は淡々と言い、それから私の方を向いた。
「彼女に客室を用意しろ。一番良い部屋をだ」
やった! 内心で歓喜しながらも、表向きにはただただ恐縮した表情を浮かべる。
「魔王様の御慈悲、感謝いたします……」
私は彼を見上げて
「ご迷惑をおかけしないよう、努めます」
魔王の双眸に、何かがきらめいた。
そして、あろうことか彼は手を伸ばし、そっと私の頭を撫でたのだ。
「良い子だ。ゆっくり休むといい。明日は我が直々に魔王城を案内しよう」
直々に案内ですって?!
これって、ゲームでは好感度が一定値に達しないと発生しない特殊イベントじゃない! 来たばかりなのに、もう発生したの?!
「は……はい! ありがとうございます、魔王様!」
私の頬が赤く染まる。
魔王は満足げに頷くと、従者に命じた。
「蛍姫を丁重にもてなせ。忘れるな、彼女は我が貴賓だ」
貴賓?!
ゲームの設定では、魔王が本当に重んじる相手にしか使わない呼び名よ!
従者に連れられて玉座の間を出る時、魔王の視線がずっと私を追っているのを感じた。ホールを出るまで待って、私はようやく狂喜の笑みを漏らした。
簡単すぎる! あまりにも簡単すぎるわ!
魔王アシュラは、やっぱり「か弱き美少女」タイプに全く抵抗がない。私が少し可憐に振る舞っただけで、すぐに彼の好感を得られたのだ。
ちょっとした小細工と、前世のゲーム攻略知識があれば……。
たかが魔王、ちょろいものね!
「姫様、こちらがお部屋でございます」
従者が恭しく、華麗な扉を開けてくれた。
「何かご入用でしたら、いつでもお申し付けください」
従者が下がると、私はようやく気を緩めることができた。化粧台の前まで歩き、鏡の中の自分を見つめる。
この顔は確かに美しい——大きな緑の瞳、しなやかな金色の髪、精緻な顔立ち。
「元カレ、見てる?」
私は鏡に向かって軽やかに笑った。
「魔王様こそが、本当に私の価値を分かってくれる男よ」
先ほどの玉座の間での一つ一つの出来事を思い返す。
魔王の反応は、予想していたよりもさらに良かった。
「魔王様」
私はそっと囁いた。
「どうぞ、私の優しい罠に、ゆっくりと堕ちていってくださいな」
