第3章

絵麻の視点

 三週間。もう三週間も、まだこんなことをしてる。

 私は天井を見つめている。そこには痣のように広がる雨染みがある。涼介の部屋の高い天井とは大違いだ。瞬きをする。首を巡らせる。ナイトスタンドの時計は、午前三時を指していた。

 毎晩、同じことの繰り返し。午前三時。目は冴えきっている。まるでマゾヒストのように、彼との瞬間を一つひとつ思い出している。

 手がスマホに伸びる。暗闇の中、画面が眩しく光る。目を細め、意味もなく画面をスクロールする。ただの暇つぶし。本当は見たいものから、目を逸らしているだけ。

 でも、指は勝手にメッセージアプリを開いていた。涼介の名前までスクロールする。そこには二日前の最後のメッセージが残っている。

 涼介、「会いたい。毎日、君のことばかり考えてる」

 文字を打ち込んでは、消す。また打ち込んでは、消す。

 何の意味があるっていうの? 結婚式の話を聞かされるだけ? 藤宮さんがどれだけ彼の世界に合っているかって話を聞かされるだけ?

 アプリを閉じる。気を紛らわせるものが必要だ。何か。何でもいいから。

 親指が画面を滑り、数ヶ月は開いていないアプリの上で止まる。『ブラインド・ハーツ』。匿名音声チャット。最初の七十二時間は、写真も本名もなし。声だけ。

 少なくとも、ここなら誰も私のことなんて知らない。乗り換えられた惨めな元カノだってことも。

 設定画面をタップしていく。何も考えずにプロフィールを埋める。

 プロフィール、「ただ前に進もうとしているだけの人」

 送信。

 マッチングのアルゴリズムは速い。すぐに通知がポップアップした。

「新しいマッチングが成立しました!」

 それをタップして開く。

 ユーザーネーム、建築心。

 息を呑む。

 建築家? 藤宮さんは建築家だ。でも、そんなの馬鹿げてる。N市に建築家なんて何千人もいる。そんなはずない。

 なのに、手が震えている。

 アプリを閉じるべきだ。アカウントも削除して。馬鹿みたい。

 それなのに、私はチャット画面をクリックしてしまった。すでにメッセージが届いている。ボイスノートだ。

 再生ボタンをじっと見つめる。三秒。五秒。十秒。

 やがてイヤホンを掴み、耳に着ける。

 そして、再生ボタンを押した。

「やあ。眠れないの?」

 その声は、私に強く突き刺さった。低くて、掠れていて、疲れている。

 涼介の声に似ている。

 心臓が止まる。スマホが手から滑り落ちそうになった。

 いや。低い声の男なんていくらでもいる。これだけじゃ、何の意味もない。

 でも、その声色には何かがあった。聞き覚えのある何かが。言葉をゆっくりと、慎重に紡ぎ出す話し方。

 三十秒ほど画面を凝視する。指は録音ボタンの上を彷徨っていた。

 それでも、押してしまった。

「ええ……私も眠れなくて。あなたも?」

 送信。

 送った瞬間、後悔した。でも、メッセージはもう送られてしまっている。

 返信はすぐに来た。

「ああ。色々と考え事をしててね」

 乾いた笑いが漏れる。再び録音ボタンを押す。

「聞かせてほしいわ、それ」

 それからの一時間はあっという間だった。私たちはボイスメッセージを交換し続けた。最初は短く、そして次第に長く。

「それで、君を眠れなくさせてるものは何? 仕事のこととか?」

 答える前に、一瞬ためらう。「そうだったら、よかったんだけど。……好きになっちゃいけない人を、好きになったの」

 数秒の沈黙。それから、声が届く。「何があったんだ?」

「未来があると思ってた。でも、彼は別の人を選んだの。彼の世界にもっと相応しい人を」

 声が震える。唇を強く噛みしめた。

 彼の返信は、少し間を置いてから届いた。「僕も最近、大切な人を失ったんだ」声に含まれた痛みは、本物のように聞こえた。「何も言わずにいなくなった。昨日まで上手くいってたのに、次の日にはもういなかったんだ」

 胸が締め付けられる。私は身を起こした。

「彼女には彼女の理由があったのかも。何か……見てはいけないものを見てしまったとか」

「例えば、何だ?」

「彼が他の誰かと一緒にいるところ、とか」

 沈黙。長く、重い沈黙。私は画面を見つめて待つ。心臓が激しく脈打っていた。

 やがて、彼の声が返ってきた。掠れている。

「なら、彼女は勘違いしたんだ。だが、それも仕方ない。僕が、正直に話してなかったからな」

 涙が頬を伝う。私はそれを拭った。

 どうして、この見知らぬ人の話は私の境遇とこんなに似ているの? どうして、彼の声は、ありもしないはずの言い訳を信じたくなってしまうの?

 私は無理やり、次のメッセージを録音する。「もし過去に戻れるとしたら、何を変えたい?」

 彼の返事は速かった。「彼女がどれだけ大切か、毎日伝えるだろうな。サプライズになんてしないで、僕が何を計画していたのかをちゃんと見せる」

 また涙が溢れる。手が震える。それでも、私は会話を続けた。

「私にとっては、もう手遅れよ。彼はきっと、もう他の誰かにプロポーズしてる」

「もし、まだだとしたら? 君が見たものすべてが、ただの間違いだったとしたら?」

 乾いた笑いが漏れた。「人生は恋愛小説じゃないのよ。物事がそう簡単に上手くいくわけない」

「そうかもしれないな。でも、話すことが助けになることもある」

 少し間があった。それから、彼は話題を変えた。「仕事の話を聞かせて。結婚式のプランを立てたりするの?」

 時計に目をやる。午前四時半。もう一時間以上も話している。

 日々の境目が曖昧になっていく。毎晩、私はブラインド・ハーツで彼の声を待っていた。仕事のこと、夢のこと、失恋のこと、後悔のこと。本名以外の、あらゆることを語り合った。

 建築心は話しやすい相手だった。彼は評価せず、ただ耳を傾けてくれる。時々、考えたくもないことまで深く考えさせられるような質問を投げかけてくるけれど。

 昼間はスタジオにいる。「鈴木ウェディングプランニング」。ドアには私の名前。涼介のお金で建てた場所だ。皮肉すぎて、吐き気がしそうだった。

 ある日の午後、私は作業台に向かっていた。テーブルには花のサンプルが広がっている。白いバラ、シャクヤク、アジサイ。私はスマホを手に取り、ボイスノートを録音する。

「ねえ、ちょっと質問。白いバラに合わせるなら、シャクヤクとアジサイ、どっちがいいと思う?」

 返事は、ほとんど間を置かずに届いた。

「白いバラとシャクヤクだ。君はシャクヤクが好きだろ」

 手から花が滑り落ちそうになる。

 心臓が跳ね上がる。スマホを掴み、すぐに録音する。

「待って、私がシャクヤクが好きだなんて、言ったことあった?」

 少し間があって、返信が来た。「勘だよ。君の声が、そういうのが好きそうな声をしてる。クラシックで、エレガントで、控えめな感じが」

 ありえない。どうしてそんなことまで分かるの?

 偶然だ、と自分に言い聞かせる。そうに決まってる。

 でも、彼を試さずにはいられなかった。「ありがとう。実は、元カレが最初のデートで白いバラとシャクヤクをくれたの」

 彼の声は、少し静かになって返ってきた。「センスがいいんだな」

「よかった、ね。過去形よ」

 その夜も、私たちは話していた。いつもより遅い時間まで。

「あのね、あなたと話していると、孤独が少し和らぐ気がする。誰かが本気で私の気持ちを気にかけてくれてるって、そう思えるの」

 彼の声には、正体の分からない何かが含まれていた。「気にかけてるよ」

「どうして? お互い、顔も知らないのに」

「時々、顔よりも声の方が、真実を語ることがある。それに、君の声は、僕が失くした人に似てるんだ」

 心臓が跳ねる。危険な期待が芽生え始める。私はそれを、必死に押し殺した。

 おやすみを言い合う。その後、ベッドに横になり、スマホを握りしめたまま、天井を見つめていた。

 おかしすぎる。建築心は私がシャクヤクを好きなことを知っている。彼の声は涼介にそっくりで、言うことなすこと涼介を思い出させる。

 でも、ただの偶然。世界は広い。似た声の人も、似た趣味の人もいるはずだ。

 これはただの見知らぬ人。たまたま、私の痛みを理解してくれるだけの、他人なんだと。そう自分に言い聞かせるしかなかった。

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