第4章
絵麻の視点
作業台に座っている。あたりにはカラーカードと生地サンプルが散乱している。隅に置いたスマホが、数分おきに画面を光らせる。
手はサンプルの上を滑るけれど、ちゃんと見ているわけじゃない。スマホが震える。私はそれを掴んだ。
建築心からのボイスメッセージ。
再生ボタンを押す。
「おはよう。今日の一日はどんなふうに始まった?」
目の前の散らかったサンプルを見つめ、録音ボタンを押した。
「今日、すっごく難しいクライアントに会ったの。紫とオレンジがいいんだって。紫! それにオレンジよ!」
送信。
数分後。スマホが振動した。
「それは……ずいぶん大胆だね。でも、君ならきっとうまくやれるよ。仕事、得意だろう」
抑えようとする前に、口角が上がってしまう。画面を見つめ、再びスマホに手を伸ばす。
「ありがとう。そうだといいな。あなたの朝はどう?」
返信はすぐに来た。
「会議。会議が多すぎる。でも、後で君と話せると思うと、なんとか耐えられるよ」
心臓の鼓動が速くなる。スマホを置く。深呼吸。何の意味もない。ただの気軽な会話だ。
でも、紫とオレンジの大惨事に意識を集中させようとすると、手が微かに震えた。
正午になり、お腹が鳴る。時間を確認する。またお昼を忘れてた。スマホが震えた。
「もう食べた? お昼過ぎてるよ」
私は固まった。
録音ボタンを押す。「まだ。あなたは?」
「弁当を食べてる。唐揚げとたくあんの」
スマホが手から滑り落ちそうになった。
唐揚げとたくあんの弁当。私の大好物。涼介が唯一作れるようになった弁当。
ただの偶然。好きな人はたくさんいる。何でもかんでも深読みするのはやめなきゃ。
スマホを伏せて置く。目を閉じる。こめかみを押さえる。息を吸って。止めて。吐き出す。
それを三回。
それから、もう一度スマホを手に取った。
「それ……私も一番好き」
「本当? センスいいね」
彼の口調には何かがあった。笑っているような。あるいは、何か別のものが。
五時四十五分。私は片付けを始めていた。窓から陽の光が差し込んでいる。空は澄んだ青色だ。スマホが鳴った。
「帰り道、気をつけて。天気予報だと、雨が降るらしいから」
窓辺へ歩いていく。雲ひとつない。
「でも、晴れてるよ。ほら、すっかり快晴」
「信じて。傘、持って行った方がいい」
躊躇する。それからバッグの中を探って、折り畳み傘を見つけ出した。二ヶ月前に涼介がそこに入れたものだ。一度も取り出していなかった。
三十分後、私は通りを歩いていた。空が急に暗くなる。雨粒が落ちてきた。
傘を開く。雨足は強まり、土砂降りになる。私はコンビニに駆け込み、コートから水滴を払った。
店の中で雨を眺めていると、思わず笑いがこみ上げてきた。スマホを取り出す。
「本当に、あなたの言う通りだった。どうしてわかったの?」
「天気予報をチェックしたんだ。君はいつも傘を持たないから」
私の笑顔が凍りついた。
『君はいつも傘を持たないから』。『天気を確認すべきだ』じゃなくて。『君は』。まるで私のことを知っているみたいに。私が忘れるのを、前にも見たことがあるかのように。
指が震え始める。イートインスペースに座り、画面を凝視した。
返信はしなかった。
十五分が過ぎる。スマホが鳴る。非通知設定。
「鈴木さんでいらっしゃいますか? こちら青木晶子の事務所です。重要な婚約パーティーの件で、ぜひ鈴木さんにお願いしたいことがありまして」
スマホを落としそうになる。
「青木さんですか? ど、どちらのご家族の……?」
「青木晶子です。彼女の息子の婚約パーティーですよ。鈴木さんが街で一番だと伺いました。予算は無制限。完璧を求めています」
耳鳴りがする。青木晶子。涼介の母親。
「パーティーはいつか、お伺いしてもよろしいですか?」
「来月です。詳細はお会いした時に。鈴木さん、ご興味はありますか?」
私は目を閉じる。深く息を吸う。指が白くなるまでスマホを握りしめた。
断るべきだ。今すぐ電話を切るべきだ。
でも、自分の声が聞こえた。「はい。喜んでお受けいたします」
電話を切った後、私は虚ろな気持ちでそこに座っていた。コンビニのざわめきが、何もない空間に溶けていく。
一時間後、由美がスタジオのドアを突き破るように入ってきた。その顔には衝撃と怒りが浮かんでいる。
「あんた、正気!? これ、青木涼介と藤宮有希の婚約パーティーよ! 元カレの結婚の計画を立てるって言うの!?」
私は椅子にもたれかかった。「見届けなきゃいけない気がするの。彼が幸せなところを見れば、私もやっと前に進めるかもしれない」
由美が私の肩を掴む。「自分を痛めつけてるだけじゃない! 絵麻、自分の姿を見てよ! 四キロも痩せて、悪夢にうなされて、毎朝枕がびしょ濡れなのよ! 本当に耐えられると思ってるの?」
彼女の手が震えている。私は目をそらした。答えは二人ともわかっている。
「私はプロよ。できるわ」
由美は私の赤い目を見つめ、やがてため息をついた。「わかった。でも、もし耐えられなくなったら、すぐに帰るからね。即刻よ」
私は頷く。声を出したら、自分を信じられなくなりそうだった。
由美が帰った後、私は誰もいないスタジオに一人で座っていた。夜が訪れても明かりはつけない。暗闇の中で光るのは、スマホの画面だけ。
午後十一時、『ブラインド・ハーツ』にログインする。建築心はもう待っていた。
「今日は疲れてるみたいだね。何かあった?」
録音しながら、私は苦々しく笑った。「すごく難しい仕事を引き受けちゃったの。元カレの婚約パーティーを企画しなきゃいけないのよ」
長い沈黙。私は画面を見つめて待つ。三十秒。一分。
「そんなふうに自分を苦しめる必要はないよ」
私の声が震える。「区切りが必要なの。彼が他の誰かと指輪を交換するところを見ないと、本当に手放せない」
また沈黙。「もし、その婚約が君の思っているようなものじゃなかったら?」
私の中で何かがぷつりと切れた。「いつもそう。あなたはいつも私に希望を持たせる。でも、現実はおとぎ話じゃないの。彼は他の誰かと恋に落ちた。それが事実よ」
「僕はただ――」
「もういい。この話はもうしたくない」
沈黙。数分が過ぎる。心臓がどきどきしながら、スマホを見つめる。
ようやく、彼の声が戻ってきた。そこには、私には読み取れない感情が込められていた。
「大事なことを計画しているんだ。すべてを変えるかもしれない、何かをね。それが起こる時、君にそこにいてほしい。友達として」
私の心は沈んだ。
「あなたもいなくなっちゃうの?」
「違う。物事を正したいんだ。でも、少し時間が必要なんだ」
「最近はみんな時間が必要みたいね。わかった。それはいつ?」
「来月。正確な日付はまた教えるよ。絵麻……」
私は凍りついた。彼が私の名前を言ったのは初めてだった。
「待って、どうして私の名前を知ってるの?」
彼の声に一瞬、パニックが混じる。「君のプロフィールだよ。アプリに載ってる」
私は急いで確認する。エマ。ああ、そうだ。
「あ……そうね。じゃあ、メッセージを待ってる」
ベッドに横たわると、頭の中は完全に混乱していた。
建築心が何か大事なことを計画している。だから、彼も私のもとを去っていくの? このバーチャルな相手さえも、消えてしまうの?
説明のつかない理由で目がひりひりするのを感じながら、私は枕に顔を埋めた。
