第2章 高嶺の花が戻ってきた

 莉緒が目を覚ますと、そこは病院の特別病室だった。

 顔を横へ向けると、病室の扉が少しだけ開いている。廊下の向こうから、話し声が聞こえてきた。

「ほんとしらけるよな。倒れるならもっと別の時に倒れろって話だろ。よりによって、こっちが一番盛り上がってる時にぶっ倒れるなんて。わざとか?」

 その声には聞き覚えがあった。

 吉野結人の友人、小林岳斗だ。

 以前、結人が何度か家に連れてきたことがある。小林岳斗は会うたび、莉緒にあからさまな嫌悪を向けてきた。

「なあ結人、ほんとよくわかんねえよ。あんな女と結婚するとかさ。莉那と比べて、どこが勝ってるんだ?」

 莉緒はずっと不思議だった。

 自分は小林岳斗に何もしていないのに、どうしてここまで嫌われるのか。

 でも今ならわかる。

 みんなの目には、小林莉那以外の女は誰一人として、吉野結人の隣に立つ資格すらないのだ。

 吉野結人が、いつもの温度のない声で答える。

「母の意向だ」

 たったそれだけの一言で、莉緒の心は底へ突き落とされた。

 そうだ。

 彼が自分を好きなはずがない。

 結婚したのだって、母親を納得させるため。それだけだ。

 小林岳斗が鼻で笑う。

「またおばさんかよ。正直、俺はいまだにわかんねえよ。莉那みたいないい女を差し置いて、なんでわざわざこんな元モデルを押しつけたんだか。外で愛想振りまいてるような女、おまえが気を遣う価値なんてないだろ」

 莉緒の指先がきゅっと丸まる。

 爪が掌に食い込んだ。

 モデルになるのは、莉緒が子供のころから抱いてきた夢だった。そのために、たくさんのものを懸けてきた。

 それでも他人の目には、目立ちたがりで、顔と身体だけが取り柄の飾り物にしか映らないのだ。

 扉の向こうで、吉野結人は何も言わない。

 その沈黙に勢いづいたのか、小林岳斗はなおも面白がるように続けた。

「でもまあ、今はよかったじゃん。莉那も帰ってきたんだし、もうこんな我慢しなくて済む。俺に言わせりゃ、どうせまだ子供もいないんだ。さっさと離婚したらどうだ? また莉那に逃げられたら困るだろ」

 莉緒は思わず自分の下腹に手を当てた。

 胸の奥に、じわりと苦いものが広がっていく。

 吉野結人がずっと自分と関係を持とうとしなかったのは、子供ができるのを恐れていたからなのか。

 全部、自分のひとりよがりだったのだ。

 そのとき、不意に廊下へ澄んだ甘い声が響いた。

「小林岳斗、またそんな好き勝手なこと言ってるの?」

「莉那!」

 たちまち小林岳斗の勢いがしぼむ。

 莉那――彼女まで来たの?

 莉緒の心臓がどくんと跳ねた。

 ベッドの上で身を起こし、扉の隙間からそっと外をうかがう。

 廊下に立っていたのは、すらりと背の高いショートヘアの女。

 小林莉那だった。

 上質なシャネルのスーツをさらりと着こなし、ただそこにいるだけで人目を引く。

 その美しさは、生命力に満ちた美だった。

 自信にあふれ、颯爽としている。

 莉緒はふと、自分の姿を見下ろした。

 元はモデルだったとはいえ、長いあいだ家庭に入って暮らすうちに、体つきはもうあのころの面影を失っていた。顔色も冴えず、くすんで痩せている。

 小林莉那とは、比べるまでもない。

 吉野結人があれほど惹かれるのも、無理はないのかもしれなかった。

 小林莉那は笑いながら、吉野結人の首に腕を回した。

 ひどく自然で、親しげで、まるでそれが当然だとでもいうように。

「なに? 私、まだ帰ってきて数日なのに、もう陰で悪口言われてたわけ?」

 吉野結人は彼女を振り払おうともしない。

 むしろその顔には、甘やかな色まで浮かんでいた。

 小林莉那はくすっと笑い、軽く彼の頬を叩く。

「ほら、言って。私に会いたかった?」

 吉野結人の喉仏がひとつ上下した。

「……会いたかった」

 その一言で、莉緒の心は粉々に砕け散った。

 自分の前ではいつだって寡黙で、冷静で、自制を崩さない吉野結人。

 甘い言葉ひとつ惜しむような夫が、別の女の前ではこんなにもたやすく、曖昧で親密な言葉を口にする。

 彼は冷たい人間なのではなかった。

 ただ、その優しさも熱も、全部、小林莉那にだけ向けていただけなのだ。

 この5年の結婚生活が、急に底の抜けた冗談のように思えた。

 廊下の外では、まだ笑い声が続いている。

 莉緒はシーツをきつく握りしめ、気づけば目の奥がじんと熱くなっていた。

 どれほど時間が経っただろう。

 病室の扉が開いた。

 真っ先に入ってきたのは小林岳斗だった。

「さてさて、うちの箱入り吉野夫人はお目覚めかな――」

 言いかけて、彼はベッドの上にぼんやり座る莉緒を見て言葉を止めた。

 後ろから、小林莉那と吉野結人も入ってくる。

 莉緒が起きているのを見ると、小林莉那は自分から歩み寄り、気さくに声をかけた。

「はじめまして。小林莉那です。結人の友達なの。莉那って呼んでくれればいいわ」

 そう言いながら、親しげに吉野結人の腕を取る。その仕草は、まるでこの場の主のようだった。

「空港からそのまま来たの。あなたが倒れたって聞いて、すぐ顔を見に来たんだけど……大丈夫?」

 その甘い笑顔が、莉緒にはひどく眩しく、そして刺々しく見えた。

 彼女は何も答えず、ただ淡々と視線をそらして窓の外を向く。

 病室の空気が、わずかに気まずくなった。

 小林莉那はこういう場慣れした女なのだろう。相手の機微を読むのに長けているらしく、莉緒がさっきの会話を聞いていたのだと、すぐ察したようだった。

 彼女は小林岳斗の腕を軽くひねり、甘えるように責める。

「もう、全部あなたのせいよ。さっき外で好き放題言うから、きっと莉緒に聞かれちゃったんでしょ。気分悪くさせちゃったじゃない」

 それから莉緒へ向き直り、相変わらず落ち着いた微笑みを浮かべる。

「莉緒、気にしないで。私たち、子供のころからずっと一緒だから、気安くてつい口が悪くなっちゃうの。ほんと、悪気はないのよ」

 そう言って肘で小林岳斗をつついた。

「ほら、早く謝って」

 小林岳斗は不満げに唇を尖らせ、投げやりに言う。

「すみませんでした、吉野夫人。ちょっとした冗談です」

 目の前で繰り広げられる、この息の合った芝居。

 莉緒は吐き気すら覚えた。

 一言だって返したくない。

 ただ目を閉じ、疲れ果てたかすれ声で言う。

「疲れたの。休みたいから、出ていって」

 一瞬、部屋の全員の顔が固まった。

 中でも吉野結人は眉をひそめ、不快そうに口を開く。

「莉那はわざわざ遠くから見舞いに来てくれたんだ。その態度は何だ」

 莉緒はうっすらと冷笑した。

「私を見舞いに来たの? それとも、あなたに会いに?」

「まだ言うのか?」

 小林岳斗が噛みつきかけるのを、小林莉那が目配せで制した。

 吉野結人は不機嫌さを隠さないまま言う。

「莉緒、莉那は善意で来てくれたんだ。少しは機嫌を直せ」

「善意?」

 莉緒の視線が、静かに小林莉那へ向く。

「私、間違ったこと言った? 手ぶらで病院に来て、本当に私を見舞いに来たって言えるの?」

「どういう意味だよ。見舞いに来るなら何か持ってこなきゃいけないってわけか?」

 小林岳斗が一歩前に出るが、また小林莉那に止められる。

 小林莉那は少し気まずそうに笑った。

「空港からそのまま来たから、ちゃんと用意する時間がなかったの」

 そう言って、ポケットから上品なギフトボックスを取り出し、莉緒に差し出す。

「ここにティファニーの新作限定ネックレスがあるの。初対面のご挨拶ってことで」

 それを見た小林岳斗が、たちまち顔色を変えた。

「莉那、それって結人がおまえに――」

「黙って」

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