第3章 妻の義務を果たす必要はない
箱の中で煌めくネックレスを見つめた瞬間、莉緒の胸はちくり、ちくりと刺された。
それは、ずっと前から欲しかったネックレスだった。
思い出す。あのときショッピングモールでキャンペーンをやっていて、ネックレスを買えばブレスレットが付いてくる――そういうやつだ。
じゃあ今朝、吉野結人が自分に渡してきたあのブレスレットは。
小林莉那に贈るネックレスの、いわばおまけだったのか。
あまりにも滑稽で、莉緒は自分が道化にしか思えなくなった。
莉緒はギフトボックスを押し返し、冷えた声で言った。
「ありがとう。でも、誰かのお下がりは受け取れない」
「お下がりじゃないよ。ほら、タグだってまだ外してないし」
小林莉那はそこまで言って、はっと口をつぐんだ。
その沈黙がかえって、これが吉野結人から彼女へ贈られたものだと決定づけてしまう。
莉緒は急に、全部が馬鹿馬鹿しくなった。
もう言い争う気にもなれない。誰の顔も見たくない。
そのまま毛布を引き上げ、頭までかぶって背を向けた。口を閉ざす。
吉野結人の気配が、露骨に冷えた。
「莉緒、どういうつもりだ。世界中が自分中心に回ってないと気が済まないのか」
毛布の中で、莉緒の目から涙が止めどなくこぼれ落ちた。
「誰も来てなんて頼んでない……帰ればいいでしょ」
「おまえ……!」
吉野結人が言い返しかけたとき、小林莉那が慌てて間に入った。そっと彼の袖を引き、柔らかい声で言う。
「結人、莉緒は目を覚ましたばかりで、まだ弱ってるの。今は休ませてあげよう?」
吉野結人はしばらく黙っていたが、結局、小林莉那に引かれるまま病室を出ていった。
ドアが閉まる直前、低い声が莉緒の耳に刺さる。
「何様だよ。家の恩を笠に着て、計算ずくでのし上がった女のくせに。偉そうにしやがって、誰に見せつけてんだ」
「もう、少し黙ってて」小林莉那がなだめる。
毛布の中で、莉緒の涙は音もなく枕を濡らしていった。
原来、他人の目に映る自分は、ただの“策略で上にのし上がった卑しい女”なのだ。
莉緒はふと、吉野結人と結婚したことそのものを後悔した。
選べるなら――最初から、吉野結人なんて知らなければよかった。婚約だって、なければよかった。
自分が何をしたというのだろう。
五年もの間、夫の冷たい暴力に耐え続けなければならなかったなんて。
ただ、好きになる相手を間違えただけなのに。
莉緒はそっと下腹に手を当て、堰を切ったように泣いた。
ごめんね、赤ちゃん。
ママ、あなたにちゃんとした家をあげられないかもしれない。
その日の午後、莉緒は退院した。
迎えに来る者は誰もいない。退院手続きまで、全部ひとりで済ませた。
産婦人科の医師であり親友でもある早川渚は、青白い莉緒の顔を見るなり堪えきれずに聞いた。
「ずっと子ども欲しいって言ってたじゃない。なのに、なんでそんな顔してるの?」
莉緒は不意に言った。
「渚……私、もう一回モデルになれると思う?」
早川渚はきょとんとして、それから吹き出すように笑う。
「何言ってんの。出産したら体型だって崩れるし、妊娠線が残ることもある。全盛期みたいには戻れないよ」
莉緒は目を落とした。
「でも……私、ほかに取り柄がない」
「お金に困ってるの?」早川渚は訝しげに眉をひそめる。「おかしいでしょ。吉野結人ほどの規模があって、あなたが困るなんて」
「ただ……結婚っていう檻に、閉じ込められたくないだけ」
離婚したいことも、ひとりで子どもを育てたいことも、莉緒はまだ言えなかった。
早川渚はじっと莉緒を見つめ、ため息をつく。
「……まあ、わかる。昔モデルしてたころのあんた、ほんと輝いてたもん。結婚なんてしてなければ、今ごろスーパーモデルだったかもしれないのに」
大げさな慰めではなかった。
莉緒はモデル時代、確かに優秀だった。国際的な大会で賞もいくつも取っている。
絶頂だったそのキャリアを、自分で手放した。
その末が今の自分だと思うと、惨めさが骨にしみた。
早川渚は流産防止の薬をいくつか渡しながら念を押した。
「変なこと考えすぎないで。帰ったらちゃんと薬飲みなよ。この子は、本当にやっと来てくれたんだから」
莉緒は薬箱を見つめ、胸の奥が酸っぱくなる。
帰る?
どこへ?
あの家は、もうとっくに形だけだ。戻りたいなんて、少しも思えなかった。
結局、莉緒は自宅には戻らず、母が買ってくれた郊外の別荘へ身を寄せた。
心の中がぐちゃぐちゃで、今は吉野結人と顔を合わせたくなかった。
夜更け、うとうとしかけたころ。吉野結人から電話がかかってきた。
どこにいる、と聞かれても答えず、莉緒は用件を問い返す。
「岳斗が莉那の歓迎会を開く。明日、おまえも来い」
声は冷えたままだった。まだ怒っているのだろう。
莉緒の中で、ぷつんと何かが切れた。
「どうして私が行かなきゃいけないの? 別に親しくもないのに」
「莉緒」
吉野結人は声を落とす。
「昼間のことはもう不問にしてやる。今回は莉那がわざわざおまえを招いたんだ。礼を失するな」
「礼儀?」
莉緒は深く息を吸い、負けじと言い返した。
「あなたの好きな人の歓迎会に行って、目の前でいちゃつくのを見せられるのが礼儀なの?」
吉野結人が一瞬、言葉に詰まる。次いで声を荒げた。
「何を馬鹿なこと言ってる」
「馬鹿なことなんて言ってない。吉野結人、あなたが何考えてるかくらい私にもわかる。これまで一度だって、夫としての義務を果たさなかった。だったら私だって、妻としての義務を果たす必要なんてない。歓迎会なんて行かない」
言い切るなり、莉緒は通話を切った。
その後も着信は何度も鳴ったが、全部拒否し、最後には電源を落とした。
もう決めたのだ。
吉野結人の心に自分がいないなら、この結婚を続ける意味なんてない。
離婚して、子どもを連れて、ひとりで生きていく。
翌朝早く。
けたたましいインターホンの音で、莉緒は叩き起こされた。
こんな辺鄙な場所に、滅多に人は来ない。
重い体を引きずって玄関へ向かい、扉を開ける。
そこには、顔色を鉄のように固くした吉野結人と、その隣に立つ小林莉那がいた。
小林莉那は莉緒を見るなり、やけに親しげに手を取ってくる。声まで甘ったるい。
「莉緒、どうして歓迎会の招待を断るの? まだ私のこと、怒ってる?」
