第4章 君は本当に吐き気がするほど気持ち悪い
莉緒はぞわりと嫌悪が走り、冷たく手を引いた。
「言ったはずよ。行かないって。あなたたちだけで好きに楽しめばいいでしょう。私のことは放っておいて」
「莉緒!」
吉野結人の声が一段高くなる。
「莉那がわざわざ誘いに来たんだぞ。その態度は何だ」
「よく言うわね」
莉緒は皮肉っぽく唇の端をつり上げた。
「吉野結人、良心に手を当てて言ってみたら? 彼女は本当に私を誘いに来たの? それとも、ただ都合のいい口実が欲しかっただけ? 私の前に堂々と連れてくるための」
「来たくないなら来なくていい」
吉野結人は、これ以上言い合う気も失せたように吐き捨てる。
「結人、やめて」
背を向けかけた吉野結人の腕を、小林莉那がそっと引き留めた。
それから一歩前に出て、申し訳なさそうに莉緒を見つめる。
「莉緒、きっと私に何か誤解してるのよね。でも、私と結人は本当にただの友達なの。小さいころから一緒に育ってきた、それだけの関係よ。今回帰ってきたのも、あなたたちとちゃんと仲良くしたいって思ったからなの」
そう言って、手にしていたギフトボックスを差し出した。
「昨日は病院で失礼しちゃったから、今日は改めて選び直してきたの。このネックレス、気に入ってくれると嬉しいな」
莉緒は受け取らない。
「小林さん、無理に取り入ろうとしなくて結構です。あなたと吉野結人がどういう関係でも、私は気にしないし、もう気にしたいとも思いません」
そして視線を吉野結人へ向けた。
五年も愛し続けた男。
それなのに今は、見知らぬ他人みたいで、ひどく滑稽に見える。
最初から一度も愛されていなかったのなら、もう縋る理由なんてない。
「吉野結人、離婚しましょう」
静かな声だった。
なのに吉野結人の顔から怒気がすっと消える。
「……何だって?」
「離婚するって言ったの」
莉緒はもう一度、はっきりと言い切った。
「この五年で、もう十分。疲れたの。これ以上、形だけの結婚を続けたくない」
吉野結人の目がたちまち陰る。
「莉緒。結婚を何だと思ってる? 子供のままごとか? したいからして、嫌になったらやめる――そんなものじゃない」
「違うの?」
莉緒はふっと笑った。
「あなたにとって、この結婚は最初から片づけなきゃいけない義務みたいなものだったでしょう。私と結婚したのは、お母様に押し切られたから。今さら私のほうから解放してあげるって言ってるのよ。むしろ喜ぶところじゃない?」
「おまえ……」
吉野結人は怒りで顔を真っ青にした。
いつも従順でおとなしかった莉緒が、こんなにも鋭く言い返してくるとは思ってもいなかったのだろう。
小林莉那は慌てて間に入り、吉野結人の腕を取ってやわらかくなだめた。
「結人、怒らないで。莉緒だって、きっと今は感情的になってるだけよ」
そのまま今度は莉緒の手まで掴み、二人の手を重ねさせようとする。
「莉緒、夫婦でいるって簡単なことじゃないわ。勢いで決めちゃだめ」
莉緒は冷ややかに彼女を見た。
自分が離婚を口にした瞬間、あの目尻には確かに得意げな色が浮かんでいた。なのに今さら善人ぶるなんて、反吐が出る。
手を引こうとすると、小林莉那はなおも口を開く。
「もちろん、私は部外者だから、あなたたち夫婦のことに口出しするつもりはないの。だからもう帰る――きゃっ」
その瞬間、小林莉那の身体がぐらりと傾いた。
ハイヒールがぐきっと崩れ、そのまま真後ろへよろける。
「莉那!」
吉野結人が咄嗟に支えたが、間に合わない。小林莉那はそのまま床に尻もちをつき、膝がたちまち赤く染まった。
「痛い……」
目にみるみる涙がにじみ、小林莉那は潤んだ瞳で莉緒を見上げた。
「莉緒、私のことが嫌いなのはわかるけど……だからって、突き飛ばさなくても……」
莉緒は一瞬、言葉を失った。
先に手を伸ばしてきたのは小林莉那のほうだ。振りほどこうとはした。けれど、まだ力など入れていない。
「私がいつ押したの?」
低く、冷えた声が落ちる。
「莉緒!」
吉野結人は完全に怒りを爆発させた。
彼は小林莉那を抱き起こし、膝の傷を確かめると、燃えるような目で莉緒を睨みつける。
「まさかおまえがここまで醜くなるとはな。嫉妬に、打算に、そのうえ人にまで手を上げるのか。今の自分がどれだけ見苦しいかわかってるのか?」
「何ですって?」
莉緒の胸にも、かっと火がついた。
「目が見えないの? 私は押してなんかいない! 吉野結人、あなたの目には、私が何をしても全部悪く見えるのね。あなたの中の私は、お母さんの恩を笠に着てのし上がった、腹黒くて嫉妬深い最低の女なんでしょう?」
「違うのか?」
吉野結人は冷たく言い返す。
「おまえの母親の恩がなければ、俺がおまえと結婚するはずがない。この五年、吉野夫人の立場も、不自由のない生活も与えてやった。まだ何が欲しい? 莉那が帰ってきた途端、露骨に手を回して、離婚まで持ち出して俺を脅すつもりか。莉緒、おまえには心底失望した」
もう見切ったはずの男なのに、その言葉はやはり胸を深く刺した。
この五年、彼にとっては施しでしかなかったのだ。
自分の愛も、この結婚に注いできたすべても、彼の目には打算としか映っていなかった。
莉緒は目を閉じ、深く息を吸い込む。胸の奥を裂くような痛みを、どうにか押し殺した。
「吉野結人、失望なんてしなくていいわ。私のほうが、よほど自分に失望してる」
一言一言、噛みしめるように告げる。
「見る目もなく、あなたなんかを何年も愛してきた自分に失望してる。とっくに見えていたはずなのに、まだくだらない幻想に縋っていた自分にも。でも、もう終わりよ」
すっと背筋を伸ばし、玄関を指さした。
「あなたのいる場所が私を歓迎しないなら、私の家も、あなたたちを一歩たりとも歓迎しない。今すぐ、その女を連れて出ていって」
吉野結人は言葉を失った。
こんな莉緒は見たことがない。
おとなしくもなければ、ただ耐えるだけでもない。
針を逆立てたハリネズミみたいに、確かに彼を刺していた。
「おまえの家だと?」
彼は鼻で笑う。
「この家だって吉野家の金で――」
「これは母が遺してくれた私の家よ」
莉緒はぴしゃりと言葉を断ち切った。
「だから出ていって。でなければ、今すぐ警察を呼ぶわ」
吉野結人は詰まった。
自分を追い出すうえに、警察まで呼ぶと言うのか。
一瞬、本気で頭がおかしくなったのではないかと疑ったほどだった。
小林莉那は吉野結人の胸にもたれたまま、そのやり取りを聞いて、心の中でそっと唇をつり上げた。
なんて愚かな女だろう。
こんなふうに騒げば騒ぐほど、吉野結人に嫌われるだけなのに。
すかさず彼の袖を引く。
「もうやめて。悪いのは私。来るべきじゃなかったの。私、帰るわ……」
「莉那」
吉野結人は反射的に彼女を引き留めた。
「怪我してるんだ。病院まで送る」
壊れ物でも扱うように小林莉那を支え、玄関へ向かう。
ふいに足を止め、振り返りざまに莉緒へ言い放った。
「離婚のこと、あとで後悔するなよ」
莉緒は寄り添う二人の姿を見つめながら、音もなく唇を歪めた。
後悔するのは愚か者だけ――そう告げるみたいに。
吉野結人はもう彼女を見ようとせず、小林莉那を気遣いながら歩き出す。
そのとき、ポケットのスマホが鳴った。
母からだった。
吉野結人は足を止め、通話に出る。
「母さん、何?」
『結人、今夜は莉緒を連れて帰っていらっしゃい。小島さんに、あなたたちの好きなスープを煮てもらったの。しばらく顔も見せてくれないんだもの』
吉野結人の眉がたちまち寄る。
横目で莉緒を見た。
「母さん、どうして急に夕食に呼ぶんだ?」
『何言ってるの。母親が息子とお嫁さんに会いたくなるのに、いちいち理由がいるの? それとも、帰ってきたくないの?』
「いや……」
吉野結人は一拍置き、それから低く言った。
「随分、都合のいい電話だな」
そう口にしながら、視線はずっと莉緒に向けられている。
その目が言っていた。
母さんに泣きついたのか。母さんを使って俺を縛る気か――と。
莉緒はその意味を悟った途端、背筋にぞっと寒気が走った。
この男は本気でそう思っているのだ。
自分が義母に告げ口し、彼を引き戻すために母親を利用したのだと。
あまりに滑稽で、吐き気さえした。
「わかったよ。今夜は帰る」
吉野結人は電話口の母にそう告げた。
「ちゃんと休んでて。無理はしないで」
通話を切ると、皮肉をたっぷり含んだ目を莉緒へ向ける。
「これで満足か?」
声は氷のように冷えていた。
「口では離婚だ何だと言っておきながら、結局は母さんを引っ張り出して俺を脅すつもりか。莉緒、おまえが嫉妬で見苦しく小細工してる顔は、本当に醜悪だ。反吐が出る」
