第1章 綻び始めた感情
平山亜美の視点
「亜美! 今日はどうしたの? もう4回目のミスよ!」
練習ホールで、ぼんやりしてワンテンポ遅れた私は、二宮さんにきつく叱られた。
二宮さんは腕を組んだまま目の前まで来ると、厳しい顔で言い放つ。
「あなたはキャプテンでしょ。あなたが遅れたら、みんなもつられて遅れる。選手権まであと3週間。この調子なら、代えるわよ」
首筋の汗を拭い、何か言おうとしたそのとき――背後で、くすっと意地の悪い笑い声がした。
「この子、最近まともに練習する気分じゃないんじゃないですか」
副キャプテンの美奈が、タオルで首を拭きながらわざとらしく言う。
「気づいてません? 坂井陽、最近ぜんぜん見に来てないですよね。前はどんな日でも、入口で待ってたのに」
私は唇をきつく噛んだ。何も言えない。けれど体だけが、かすかに震えていた。
坂井陽は私の彼氏だ。最近、少しうまくいっていない。そのせいで、練習にも集中しきれずにいる。
「そういえば、その坂井陽だけど」
別の部員が話を継いだ。
「昨日、喫茶店であなたと一緒にいるの見たよね。ねえ、有紗?」
視線が、列のいちばん右にいる女の子へ向く。
桜井有紗はのんびりと高いポニーテールを結びながら、ちらりと私を見た。口元には、挑発するみたいな笑み。
私と桜井有紗は、1年のころからずっと張り合ってきた。チア部の控えメンバーからレギュラーへ、そしてキャプテンの座へ。
最後に勝ったのは、私。
でも彼女がそれを認めていないことも、私の彼氏である坂井陽に近づく隙をずっと窺っていることも、みんな知っている。
「はい、そこまで! あなたたち、練習しに来たの? おしゃべりしに来たの?」
二宮さんが鋭く一喝する。
「続けるわよ!」
みんな、しぶしぶ口を閉ざした。
私はその場に立ち尽くした。汗はまだ流れているのに、背中だけがひやりと冷えていた。
やっと練習が終わって、私は水場へ向かった。顔を洗って、少し落ち着きたかった。
蛇口をいっぱいまでひねり、冷たい水を両手ですくって顔に叩きつける。ひやっとして、ほんの一瞬だけ頭が冴えた。
「亜美、大丈夫?」
振り向くと、林原莉子が立っていた。顔いっぱいに心配を浮かべている。
「大丈夫」
私は苦笑いでごまかした。
「嘘。みんな噂してる。坂井陽のことでしょ?」
莉子はじっと私を見つめた。
私はため息をつき、小さな声で言った。
「昨日、私の誕生日だったの。でも、坂井陽は来なかった」
莉子が目を見開く。
「え……理由、聞いた?」
私は視線を遠くへ逃がしながら、できるだけ淡々と答えた。
「後輩が倒れて、病院に連れて行ったって。でも、喫茶店で桜井有紗と一緒にいたのを見た人が何人もいる」
「じゃあ、嘘ついてるってことじゃない!」
莉子が悔しそうに声を荒げる。
私は首を振って、乾いた笑いをこぼした。
「もういいよ。今はちゃんと練習したい。ほかのこと、考えたくない」
莉子は私の肩をぽんと叩き、やさしく言った。
「それでいいよ。だってキャプテンの座って、亜美がどれだけ頑張って掴み取ったか、私ちゃんと知ってるもん」
少し話しているうちに、胸の奥に沈んでいた重たいものが、ほんの少し軽くなった。
午後の練習ではミスも減っていって、二宮さんの態度もだんだんやわらかくなった。
練習が終わったころには、もう16時。寮へ戻ろうとした私の足元に、すっと長い影が落ちる。
坂井陽がアオギリの幹にもたれていた。片脚を根元に引っかけ、指先で車のキーをくるくる回している。風に乱れた髪。濃いグレーのパーカーが、広い肩をいっそう際立たせていた。
私に気づいた瞬間、彼は背筋を伸ばし、キーをポケットにしまってこちらへ歩いてくる。
「亜美」
名前を呼ばれても、私は立ち止まらなかった。むしろ歩調を速める。今は話したくない。
「亜美! 待って!」
坂井陽が追いついてきて、私の手首をつかんだ。
「何?」
振りほどこうとしたけれど、相手はアメフト部だ。力が違う。
「話を聞いてくれ」
焦った声だった。
「有紗のことは前に説明しただろ。病院に付き添って、その帰りに喫茶店でコーヒーを買っただけだって。信じられないなら、スマホ見せる。チャットの履歴も全部残ってるから」
差し出されたスマホの画面をざっと見る。
たしかに、書かれている内容は彼の説明と一致していた。胸の奥にあった疑いが、少しだけ薄れる。
「……別に、信じてないなんて言ってない」
私はスマホを押し返した。
「亜美、やっぱりおまえがいちばんだ!」
坂井陽はぱっと顔を輝かせると、パーカーのポケットから何かを取り出し、私の手のひらに押しこんだ。
青い小箱だった。
彼が片手で蓋を開ける。中に入っていたのはネックレス。小さなサファイアの雫が、まるで凍った海の一滴みたいに青く光っていた。
「先週、ネックレスなくしたって言ってただろ。これ、その代わり」
媚びるような笑みを浮かべる。
坂井陽はネックレスを箱から取り出すと、私の背後に回り、うなじの細い後れ毛をそっと払って留め具をつけた。
「すごい似合う」
彼が笑う。目元のやわらかな弧が、ずるいくらい優しい。
その笑顔につられて、私も笑ってしまった。昼間までの怒りは、ほとんど溶けていた。
「明日、時間ある?」
私が尋ねると、坂井陽はきょとんとしたあと、すぐに何度も頷く。
「あるある! どうした?」
「朝練、付き合って」
そう言って数歩進み、振り返る。
「6時。遅刻禁止だから」
「了解、俺の女王様!」
彼は三本指を立てて、やけに真面目な顔で言った。
その大げささに、私はつい口元をゆるめる。
すると坂井陽はその隙を逃さず、さっと近づいて私の額に軽くキスを落とした。半歩下がって両手をポケットに突っ込み、得した子どもみたいに笑う。
私は首元のネックレスにそっと触れた。
幸せだ、とまた思ってしまう。
私はまだ、坂井陽のことが好きだ。
好きなら、信じるべきなんだ。
翌朝。
私は時間どおり、グラウンド入口の鉄柵の前に立っていた。
朝の空気は薄く、ひんやり冷たい。私はひとりでストレッチを始める。
6時になっても、坂井陽は来ない。
10分過ぎても、まだ来ない。
もう諦めようかと思った、そのとき。
背後から、きゃあきゃあと甲高い笑い声が流れてきた。
振り向く。
グラウンドの反対側に、坂井陽がいた。深いネイビーのスポーツウェアに、肩には白いタオル。髪は濡れていて、まるでシャワーを浴びたばかりみたいだった。
その隣には桜井有紗と、数人の女の子たち。
有紗はピンクのタンクトップに白いショートパンツ、長い髪を下ろしたまま、坂井陽の肩に手を置いている。その仕草は、どう見ても親しすぎた。
私に気づくと、桜井有紗が真っ先に鼻で笑う。
「ねえ、陽。あんたの雌犬、迎えに来たみたいだけど?」
