第3章 彼氏の家にお邪魔する
平山亜美の視点:
顔を上げると、坂井陽が両手をポケットに突っ込んだまま、私と中村啓人の前に立っていた。表情は、どこか重い。
「彼氏さんが来たなら、俺は邪魔だよな」
中村啓人は空気を読んで立ち上がる。
「うん、またね」
私も礼儀として返した。
中村啓人が去ると、坂井陽はふっと柔らかい顔に戻った。
「ごめん、亜美。昼、ちょっと用事が入ってさ。もう食べた? まだなら奢るけど」
「食べた」
淡々と答える。
「じゃあ……外、少し歩く?」
坂井陽がそう提案する。
少し迷ってから、私は頷いた。
歩きながら会話はほとんどない。陽は必死に話題を探してくれるのに、私はどこか上の空だった。
「そうだ。今日の午後、母さんに電話したんだ」
唐突に言われ、私は眉をひそめて彼を見る。
「彼女ができたって言った」
坂井陽は私の手を取り、優しい声で続ける。
「今週末、家に連れて来いってさ。飯、食べようって」
一瞬、息が止まった。
「分かってるだろ。俺、今まで女の子を家に連れてったことないんだ」
真面目な目。どこかへりくだるような、必死さまで滲んでいる。
「亜美が初めて。だから……親も、この顔合わせをすごく大事にしてる」
私は長く黙った。
以前、私が「家に行ってみたい」と言っても、彼はいつも理由をつけては避けてきた。
今回は、本気なのだろう。
嬉しいはずなのに、胸の奥がざわつく。
「土曜? 日曜?」
抑えた声で尋ねる。
「土曜」
坂井陽は私を軽く抱きしめ、柔らかく言った。
「昼に迎えに行く」
私はその胸に身を寄せ、素直に頷く。
「……うん」
それから数日、陽のことは考えすぎないようにして、練習に没頭した。
「いいじゃない!」
二宮さんが鏡の前で、満足そうに拍手する。
「それよ。私の知ってる平山亜美」
二宮さんは首から笛を外し、私の首にそっとかけてくれた。
「3週間後の選手権大会まで、この状態を維持しなさい」
笛を渡されるのは、キャプテンとして認められた証。
「ありがとうございます。やります」
首元の笛を両手で押さえ、胸が熱くなる。
視界の端で、隊列の一番端に立つ桜井有紗が鼻で笑ったのが見えた。
練習が終わると、ちょうど12時。
私は最後に練習ホールを出る。音響を切り、窓を開けて空気を入れ替え、床に転がるペットボトルを一本ずつ拾ってゴミ箱へ放り込んだ。
それから扉を押し開けると、入口に坂井陽の車が停まっていた。
40分ほど走り、灰色の別荘の前で車が止まる。
玄関ポーチには、坂井陽のお母さんが待っていた。
白いリネンのセットアップ。髪は低いシニヨン。
私を見るなり階段を下り、両手で私の手を包むように握って、穏やかに笑う。
「亜美、やっと会えたわ! 想像よりずっと綺麗。さあさあ、入って」
坂井夫人に案内されて中へ入ると、リビングに家族写真が飾られていた。
写真の坂井陽は7、8歳くらい。前歯が一本抜けているのに、屈託なく笑っている。
坂井さんと坂井夫人が左右に立ち、みんな肩の力が抜けた笑顔だ。
ただ、写真の一番右にいる人物だけが笑っていない。
顔が半分しか写っていないのに、存在感が異様に強い。
グレーのスーツで、端に横向きで立っている――まるで写真の外側まで支配するみたいに。
「陽の叔父よ」
私の視線に気づいた坂井夫人が小声で言い、すぐに話題を変えた。
「さあ、リビングはこっち。今日は私の手料理なの。口に合わなかったら遠慮なく言ってね」
食事の雰囲気は、思っていたよりずっと和やかだった。
坂井さんは次々と料理を取り分け、坂井夫人は陽の子どもの頃の失敗談を惜しげもなく暴露する。
坂井陽は、笑いながら「やめてよ」と言わんばかりに夫人の口元を手で押さえ、結局みんなが笑った。
私がすっかり気を抜いた、そのとき――外でクラクションが鳴った。
空気が、一瞬で張り詰める。
みんなの表情が強張った。
反応する間もなく、玄関が開く。
入ってきたのは、黒いスーツの大柄な男だった。
三十代半ばくらい。坂井陽より頭半分高い。広い肩、絞れた腰。
黒いジャケットの下には白いタートルネック。額に数本の髪が落ち、近寄りがたい圧がある。
坂井夫人が真っ先に立ち上がり、にこやかに言った。
「駿介、おかえり。もう少し遅いと思ってたわ」
「会議が早く終わった」
低く、ざらりとした声。
彼は車のキーをテーブルに置き、ゆっくりと上着を脱ぎ始めた。妙に丁寧で、儀式みたいな動作。
そして私は見てしまう。
腰のホルスターに、拳銃がある。
黒いグリップが腰に沿い、ベルトで固定されている。
サイズは大きくない。けれど、頭の中が真っ白になった。
私はフロリダ育ちだ。猟銃も警官の銃も見たことはある。
でも――家族の昼食に、こんなふうに平然と銃を持ち込む人間は初めてだった。
それなのに、他の家族は驚いていない。
坂井夫人は一瞬視線を走らせただけで、何事もないように逸らす。
坂井さんは顔を上げすらしない。
坂井陽も小さく息を吐き、テーブルの下で私の手を握って「大丈夫」と伝えてくる。
宮下駿介は席のそばまで来ると、全員を順に見回し、最後に私で止めた。
目が合った瞬間、背中が強張る。
無表情のまま、平坦に言う。
「客か」
坂井陽がすぐ立ち上がり、へりくだった調子で紹介した。
「叔父さん、平山亜美。俺の彼女」
――叔父さん?
陽は、こんなに若い叔父がいるなんて一度も言わなかった。
「平山亜美」
宮下駿介が私の名前を繰り返す。小さく、何かを測るみたいに。
それきり黙り、ただ私を見ている。
背中に冷たい汗が滲む。
なぜ緊張するのか分からない。でも圧が強すぎて、呼吸まで意識しないと乱れる。
私は唾を飲み込み、無理に立ち上がった。
「はじめまして。お会いできて光栄です」
手を差し出す。
宮下駿介は私の手を一瞥し、すぐには握らず、低い声で言った。
「学校の飯は不味いのか」
