第4章 彼女を一人置き去りにする

平山亜美の視点:

私は一瞬、言葉の意味がつかめず固まった。

「……え?」

宮下駿介は私を頭の先から足元まで一巡させ、凪いだ声で――けれどどこか刺すように言った。

「どうしてそこまで痩せられる」

伸ばしたままの手が宙で止まり、貼りつけた笑みが、じわじわと固まっていく。

何を意図しているのか分からない。普段なら「心配してくれてるんだ」と受け取れたはずだ。

でも今日は――ついさっき桜井有紗に、あんなふうに嘲られた直後だ。

どうしても、別の意味に聞こえてしまう。

手を引っ込めるべきか、このままにするべきか迷っていると、宮下駿介がふいに口を開いた。

「すまない」

「少々、言葉が過ぎましたね」

そう付け足してから、ようやく彼は手を伸ばし、私の指先を軽く握った。

冷たい手。触れたと思った瞬間、すぐに離れる。

宮下駿介は踵を返し、自分の席へ戻って腰を下ろした。

坂井夫人が慌てて場を取り繕う。

「亜美、気にしないでね。駿介は長く軍にいたから、どうしても言い方がね……悪気はないの。本当に」

私は無理に口角を上げた。

「大丈夫です」

座り直したものの、食欲はすっかり消えていて、そのあと箸はほとんど進まなかった。

空気を変えたかったのだろう。坂井夫人がぱっと立ち上がる。

「亜美、陽の小さい頃の写真、見ない? もう、すっごく可愛いのよ」

手を引かれるように食卓を離れ、リビングの隅の棚へ向かう。

そこにはアルバムがぎっしり並んでいて、坂井夫人は分厚い青いアルバムを抜き取ると、ぱらりと開いた。

金髪の赤ん坊が、歯のない口でにかっと笑っている。

「これが生後6か月の頃」

慈しみに満ちた声。

「ほら、小さい頃から笑うのが大好きなの」

私は意識をそちらに寄せ、ページをめくった。

初めて自転車で転んで泥だらけになった日。ハロウィンでスーパーマンになった日。小学校の卒業式で、おかしな角帽を被った日……。

坂井陽の子ども時代が、まるごと閉じ込められている。

「これは中学のアメフトの試合ね」

坂井夫人が一枚の写真を指さした。

十五歳くらいの陽が、サイズの合っていないユニフォームで頬にフェイスペイントをして、トロフィーを抱え、馬鹿みたいに笑っている。

その背後に、長身の男が立っていた。ジャージ姿で、陽の肩に片手を置いている。

――宮下駿介。

今よりずっと若い。二十代前半だろうか。顔の線もまだ硬すぎず、口元には薄い笑みさえ浮かんでいた。

「それが駿介」

私の視線に気づいた坂井夫人が、声を落とす。

「陽は昔から彼に憧れててね。駿介は退役前、特殊部隊の士官だったから……まあ、普通の人とはちょっと習慣が違うのよ」

私は躊躇いながら訊ねた。

「退役しても……銃って持てるんですか?」

坂井夫人の笑みがわずかに薄れる。

「それは彼の携行用。退役後の仕事が……まあ、とにかく合法なの」

私は思わず、キッチンの方にいる男の影をちらりと見た。

退役後の仕事。いったい何を――?

坂井夫人はアルバムを閉じ、私の手を包むように言った。

「駿介はいい人よ。ただ、不器用なの。陽のお父さんが早く亡くなってね、駿介は父親代わりみたいに陽を支えてきた。だから陽のことには特別に厳しいし……その彼女のあなたにも、気にしてるのよ。言い方が直すぎるだけ。どうか気にしないでね」

私は頷いた。けれど、どんな言葉を返せばいいのか分からなかった。

そのとき、陽のスマホが鳴った。

出た瞬間、彼の表情がぱっと華やぐ。

「え、マジで? 今? どこ?」

通話しながら、陽はリビングの外へ出ていく。

「もちろん! すぐ行く! 待って、母さんに言ってから――」

戻ってきた陽が、勢いよく言った。

「母さん、チームで急に飲み会! 城東のバー! 俺、酒は飲まない、顔出すだけですぐ戻る!」

坂井夫人がため息をつく。

「陽、亜美が来てるのよ」

「あ、そうだった」

陽は私に向き直り、両手を合わせて拝むみたいにする。

「亜美、気にしないよね? ただの飲み会なんだ。俺、顔出してすぐ戻るし。君はここで母さんと話しててよ。母さん、君のことすごく気に入ってるしさ」

胸の奥が、すとんと沈んだ。

初めて彼の家に来たのに。私は、途中で置いていかれるのか。

「……私、どうやって帰るの?」

口に出すと、陽は即答しかけて、そこで一度止まった。

「あとで送る!」

けれどすぐに歯切れが悪くなる。

「……いや、もし二次会になったら……そうだ、君はここで待ってて。できるだけ早く戻るから!」

そのとき、食卓の方から低い声が落ちてきた。

「坂井陽」

宮下駿介だ。

「彼女を一人で待たせて、お前は飲みに行くのか」

陽が頭を掻く。

「ちょっとだけだって――」

「俺が送る」

宮下駿介はナプキンを置き、立ち上がった。

立ち上がっただけで、さっきの圧が戻る。陽より半身ほど高い。

「いや、おじさんはいいって!」

陽が慌てて言う。

「俺、ほんとすぐ――」

「お前は行くと決めた」

宮下駿介は陽の目の前に立ち、言い切った。

「なら責任を取れ。彼女を連れて行くか、別日にしろ。客を一人置いていくのは紳士のすることじゃない」

陽の顔が引きつる。私と駿介を交互に見て、最後に歯を食いしばった。

「亜美、ごめん」

陽は私に向き直る。

「でもこれ、ほんと大事で……監督もいるし、行かないと――」

「行って」

私は遮った。

「私、自分で帰れるから」

「本当?」

陽の目がきらっと光る。

私は頷いた。これ以上、空気を悪くしたくなかった。

陽はすぐに私を抱き寄せ、頬にキスを落とす。

「ありがとう亜美! 最高! 明日、埋め合わせする!」

そう言い残し、階段を駆け上がって上着を取りに行く。数分後、車のキーを握って降りてきて、玄関で靴を突っ込みながら叫んだ。

「母さん、おじさん、行ってくる! 亜美、家着いたら連絡して!」

バタン、と扉が閉まった。

リビングに静けさが戻る。

坂井夫人は気まずそうに口を開きかけ、結局は小さくため息をついた。

「もう……あの子ったら」

そして私に向かって、笑い直す。

「亜美、気にしないで。陽はちょっと……衝動的なだけ。デザート食べる? アップルパイ焼いたの」

私は礼儀正しく微笑む。

「いえ、ありがとうございます。今日は本当にお邪魔しました。そろそろ帰ります」

「送る」

宮下駿介が言った。

「大丈夫です。配車を呼びます」

慌てて返す私をよそに、彼はもうキーを手に取っている。

「この時間、この場所だと40分は待つ」

淡々と告げる。

「送る。上着を取ってこい」

まだ断ろうとしたが、坂井夫人がそっと背中を押した。

「お願い、駿介に送らせて。私も安心なの。気をつけてね、亜美。また来て」

私は小さく頷き、上へ上がってリュックと上着を取った。

宮下駿介の運転は安定していて、道中、ほとんど何も言わない。

沈黙が落ち着かず、私はついルームミラー越しに横顔を盗み見た。

街灯が落とす影の中で、彼の輪郭は鋭く浮かび上がっている。引き結ばれた顎のライン。喉仏が、息を呑むたびに小さく上下した。

視線に気づいたのかもしれないのに、彼は振り向かない。

「今日のこと、改めて謝る」

突然、宮下駿介が言った。

私は反射的に聞き返す。

「……え?」

「痩せていると言った件だ」

少し間を置き、言葉を選ぶように続ける。

「侮辱の意図はない。観察の結果を述べただけだ」

「観察……?」

「君の体重は同年代女性の健康基準より最低15%低い」

事務的な声。

「だがチアの練習強度は高い。代謝が異常に高いか、摂取不足か。運動選手なら前者が有力だが、後者も排除できない」

真面目すぎて、返事が見つからない。

「俺は……」

彼が珍しく言い淀む。

「雑談が得意じゃない」

私は小さく、息を漏らすように言った。

「……分かります」

宮下駿介は、短く。

「うん」

またしばらく走ってから、彼がもう一度だけ口を開いた。

「陽はいつも、ああなのか」

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