第5章 君の頭の中はトレーニングのことしかないのか?
平山亜美の視点:
「……ああって?」
「君を一人で置いていく」
私は黙り込んだ。
坂井陽の家族の前で、彼を貶めるようなことは言いたくない。けれど、宮下駿介の問いはあまりに的を射ており、逃げ場がなかった。
「……たまに、あります」
結局、そう答えるしかなかった。
宮下駿介はそれ以上は掘り下げない。車内はまた静けさに包まれたが、さっきほど気まずくはない。
二十分ほどで、車は私の寮の前に止まった。
シートベルトを外し、彼へ向き直る。
「送ってくださって、ありがとうございました」
「気にするな」
宮下駿介は小さくうなずくと、スーツの内ポケットから名刺を一枚取り出し、私へ差し出した。
「陽がまた同じことをしたら。あるいは助けが必要なら、ここに連絡しろ」
私は思わず見上げる。けれど彼は、もう前方へ視線を戻していた。
「……ありがとうございます」
それしか言えない。
「平山亜美」
呼ばれて、降りかけた体が止まる。振り返ると、宮下駿介がこちらを見ずに言った。
「自分を大事にしろ」
低い声。
「君は、もっと大切にされるべきだ」
……
それからの二週間、私はすべてを練習に注ぎ込んだ。
二宮さんの言うとおり、状態を落とすわけにはいかない。
毎朝六時にはグラウンドでウォームアップ。夜九時になっても練習ホールで鏡に向かい、細かい癖を潰していく。
「完璧!」
何度目かの通し練習で、二宮さんがパン、と手を叩いた。顔に浮かぶのは珍しい笑み。
「みんな、この調子をキープできれば地区優勝は確実よ!」
ようやく息がつけた。
全部、軌道に乗った――そう思いたかったのに。
休憩中、どうしても耳に入ってしまう話がある。
「坂井陽、昨日も文芸部の後輩と喫茶店行ったって」
「マジ? 亜美、知ってんの?」
「さあ。キャプテン様は忙しいんじゃない?」
私はボトルの蓋をひねり、ぐいっと水を飲んだ。聞こえなかったふりをする。
林原莉子が近づいてきて、隣に腰を下ろした。目がやさしく、でも心配で揺れている。
「……大丈夫?」
「絶好調」
私は笑ってみせる。
「練習に集中してるだけ。ああいうの、放っといて」
「私が言ってるのは、あの子たちじゃない」
林原莉子が声を落とした。
「坂井陽。最近……連絡、減ってない?」
水を飲む手が、ぴたりと止まった。
図星だ。
あの日、坂井陽の家から帰って以来。私たちの連絡は、少しずつ、確実に減っていった。
彼は練習、パーティー、重要なイベント。
私は練習、練習、それから練習。
メッセージ自体は毎日する。「おはよう」「おやすみ」「愛してる」だって送る。
それなのに、心だけが日ごとに遠ざかっていく。
「……お互い忙しいだけ」
私はそう言った。
昼休み。
練習ホールの外階段に一人で座り、スマホを握りしめる。迷って、迷って、ほとんど使っていない番号へ発信した。
数回の呼び出し音のあと、通話がつながる。
『亜美?』
母の声。向こうはやたら騒がしい。
『どうしたの、こんな時間に。何かあった?』
「ううん、ママ」
私はスマホをきゅっと握る。
「ただ……ママとパパ、いつ帰ってくるの?」
数秒、沈黙。
『亜美、先週ビデオ通話したばかりでしょ?』
申し訳なさの混じった声になる。
『ミラノのプロジェクト、少なくとも来月までは終わらないの。あなたも分かってるでしょう。大事な案件なの』
『どうしたの? お金が必要? パパに送金させようか?』
「お金じゃない」
下唇を噛んだ。
「選手権大会、前倒しになったの。来週の土曜が本番で……その……見に来てほしくて」
さらに長い沈黙。
『亜美、行きたいよ』
母の声が柔らかくなる。でも結論は変わらない。
『でも往復で最低三日は潰れる。今、どうしても抜けられないの。必ず配信で観る。ね?』
喉がきゅっと締まった。しばらくして、ようやく声を絞り出す。
「……分かった」
『頑張って。ママ、あなたが一番だって知ってる』
優しく言い聞かせるみたいに続く。
『プロジェクトが終わったら絶対帰るし、埋め合わせに旅行も行こう。ね?』
「うん」
『じゃあね、クライアントが待ってる! 愛してる!』
「私も……愛してる」
通話が切れた。
私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
もう慣れている。
中学の頃から、保護者面談も、発表会も、重要な試合も――いつだって二人は忙しかった。
最初は泣いて、怒って、部屋に閉じこもって。やがて、期待しないやり方を覚えた。
でも今回は違う。
大学生活最後の大会。
チアダンス部キャプテンとして、初めてで、最後の舞台。
帰ってきてくれるって、どこかで信じていた。
スマホがぶるっと震える。坂井陽からのメッセージだ。
『今夜チームで飯。今日は一緒に食えない。明日埋め合わせ!』
画面を見た瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
私は「うん」だけ返し、スマホを切って立ち上がる。パンパン、とズボンの埃を払って練習ホールへ戻った。
「練習、続ける」
自分に言い聞かせる。
余計なことを考えないよう、身体を追い込み、頭を空っぽにする。
その日も結局、十時まで。
私は最後に建物を出た。
バッグを肩に掛け、階段をゆっくり下りる。
そのとき、スマホが鳴った。坂井陽からの着信。
出る。
『亜美! 今どこ?』
向こうは爆音の音楽。パーティーの真っ只中だ。
「練習終わったところ。寮に帰る」
『遅すぎだろ。亜美、毎日そんなの体壊すぞ』
「選手権大会が前倒しになった。来週の土曜」
私は言った。
「だから詰めないと」
『また選手権大会』
坂井陽の声に、露骨な不満が混じる。
『お前、頭ん中そればっか。俺たち、まともにデートしてないだろ。三日? 四日?』
私は足を止めた。
「陽、これは私にとって大事な試合だよ」
『俺は大事じゃないのか?』
声が、急に高くなる。
『亜美、有紗の件でまだ嫉妬してんだろ? 説明したし、家にも連れてった。俺の誠意、足りないって言うの? 何が不満なんだよ』
責められるたび、体の芯が冷えていく。もう、限界だった。
「誠意って何?」
私の声も荒くなる。
「有紗が私の目の前であんなことしても止めないで、あとから私に説明するだけが誠意? 初めてあなたの家に行ったのに、私を置いて自分だけ出ていった。それが誠意?」
溜め込んでいた疲れと悔しさが、一気に噴き出した。
「デートしてないって言うけど、私のこと気にした?」
私は続けた。
「大会が前倒しになったこと、知ってた? 私が毎日何時まで練習してるか、知ってた? 親がまた来られないって、知ってた?」
電話の向こうが数秒、無音になる。
『だから何? それが俺を冷たくする理由?』
坂井陽の声が、すっと冷たくなった。
『親が来ないから、俺にも嫌な思いさせるって?』
「違う、そうじゃ――」
『じゃあ何なんだよ!』
被せるように怒鳴られる。
『亜美、お前、感情がコロコロ変わりすぎ。マジで理解できない。もう少し大人になれよ!』
大人になれ――?
その言葉に、私は凍りついた。
