第7章 死にたいなら、叶えてやるよお前たちに
平山亜美の視点
行っちゃった……! みんな、勝って浮かれてたんだ。私が乗ってないことに気づきもしなかったんだ……!
私は慌てて踵を返し、休憩室へ駆け戻った。ロッカーを開けて、スマホを探してみんなに電話しようとする。
けれど――私のロッカーは、空っぽだった。
バッグがない。スマホも、着替えも、全部。
私はその場で凍りついた。すうっと風が吹き抜け、さっきまで優勝をつかむまで一緒に戦ってくれた、汗まみれのユニフォームが急にひどく冷たく感じられた。
「なんで……」
思わず呟く。
桜井有紗だ。
その名前が、稲妻みたいに脳裏をよぎった。
私はぎゅっと下唇を噛み、無理やり息を整える。
周囲を見回す。体育館の照明はほとんど落とされていて、明かりがついているのは警備室だけだった。
私は駆け寄り、窓をこつこつ叩いた。
警備員が窓を開ける。
「どうしました?」
「すみません、チームメンバーとはぐれてしまって……お電話をお借りできませんか?」
私は必死に頼み込んだ。
警備員は一瞬ためらったものの、やがて携帯を差し出した。
「手短にお願いします。もう施錠するので」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
私は携帯を受け取って――そこでふと、誰にかければいいのか分からなくなった。
両親は家にいない。知らせたところで、結局は自分でどうにかしなさいと言われるだけ。
いま頼れる相手なんて、坂井陽しか思い浮かばなかった。
少し迷ってから、私はその番号を押した。
1回、2回、3回――
ようやく、電話がつながる。
「陽! 私、亜美――」
焦って口を開いた、その瞬間。
「亜美?」
受話口の向こうから聞こえてきた低い声は、坂井陽のものじゃなかった。
私は息を呑む。
「宮下さん……?」
「俺だ。誰の携帯を借りてる?」
宮下駿介は淡々とした口調で続けた。
「陽なら2階にいる。携帯はリビングに置きっぱなしだ」
――そういうことなんだ。
胸の奥に、言葉にできない感情がどっと押し寄せた。
今日が試合だって、陽は知っていたはずだ。
それなのに、向こうから連絡ひとつよこす気もなくて、携帯すら放ってあるなんて。
でも、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「私……助けてほしいんです」
私は深く息を吸い、できるだけ簡潔に事情を説明した。
受話口の向こうが、2秒ほど黙る。
「場所は」
「城西体育館です」
「待ってろ」
それだけ言って、宮下駿介は電話口から離れた。すぐに足音が遠ざかる。
しばらくすると、向こうで坂井陽の興奮した叫び声が響いた。
「よっしゃ! そこだ、決めろ!」
続いて、ドアの開く音。何かが床に落ちる鈍い音。
それから、宮下駿介の低い声がはっきりと耳に届いた。
「城西体育館まで行って、お前の彼女を迎えに行け」
「行かない」
陽は即答した。迷いなんて、ひとかけらもない声だった。
宮下駿介の声が、すっと冷える。
「陽。お前の彼女は、チームに置いていかれた。携帯もない、金もない。人の携帯を借りて、お前に電話してきた。俺が代わりに取った。だから今すぐ迎えに行け」
「だから、行かないって言ってるだろ!」
陽の声が苛立ちを帯びる。
「あいつ、いつだって自分に都合がいい時しか俺に連絡してこないんだよ。なんで俺が行かなきゃいけないんだよ」
「お前があいつの彼氏だからだ。それに、バスが待たなかったってことは、いまのあいつはかなり危ない状況にいる」
「だったら、なんで他のやつは待ってもらえて、あいつだけ置いてかれたんだよ?」
陽は開き直ったように言い返した。
「要するに、あいつが普段から冷たくて、周りとうまくやれてないってことだろ。だから――」
「黙れ!」
宮下駿介の一喝が、鋭く遮る。
ぞくりと背筋が粟立った。
「最後にもう一度だけ聞く。行くのか、行かないのか」
「行かない」
陽は頑なだった。
短い沈黙のあと、宮下駿介が低く言い捨てる。
「そうか。陽、お前はいつか必ず、今日のことを後悔する」
その直後、乱暴にドアが閉まる音がした。
受話口の向こうで、陽の怒鳴り声がまだかすかに聞こえる。
「俺は絶対、後悔なんかしない!」
私は電話を握ったまま、背中から冷えていくのを感じていた。
私の状況を知っても、来てくれないんだ……。
耳の奥で、ぶうんと嫌な音が鳴る。
頭が真っ白になりかけた、そのとき。
「平山。聞こえてるか」
宮下駿介の声がして、私はようやく我に返った。
「……はい」
「その場を動くな」
それだけ告げると、電話は切れた。
残されたのは、気が遠くなるほど長い待ち時間だけだった。
私は体育館の入口の街灯の下で、ずっと立ち尽くしていた。
手も足も、かじかんで感覚がなくなっていく。
胸の中まで、少しずつ冷えきっていく。
宮下駿介……本当に、来てくれるんだろうか。
「ねえ、お姉さん。ひとり?」
軽薄な口笛まじりの声が、すぐ横から飛んできた。
私は全身をこわばらせ、ゆっくり振り向く。
欄干にもたれた若者が数人。髪は派手に染められ、にやにやしながら私を見ていた。
心臓がどくんと跳ねる。
私はすぐに目を逸らし、聞こえなかったふりをして、向かいの通りの明るい方へ足早に向かった。
あそこなら、24時間営業のコンビニがある。
「待てって。ちょっと話そうぜ!」
背後で足音がした。
私はとっさに小走りになり、コンビニのドアを押し開ける。
店内に人がいるのを見て、連中は追ってこなかった。
私はようやく、ほんの少しだけ息をつく。
レジの奥には、あくびを噛み殺している若い店員がいた。ちらりと私を見ただけで、またスマホに視線を落とす。
私は店のいちばん奥の棚のそばまで行き、商品を見ているふりをしながら、ガラス扉の外をじっと見張った。
さっきの連中の影が入口あたりをうろうろして、何か吐き捨てるように言って――やがて、ようやく立ち去っていく。
張り詰めていた肩が、がくんと落ちた。
その瞬間、頬がひやりとしていることに気づく。触れてみると、まだ乾いていない涙の跡だった。
私は慌てて手の甲で乱暴に拭う。
けれど、そのとき。
店のドアが、がらりと乱暴に開いた。
入ってきたのは、ふらつく足取りの男が二人。数メートル離れていても分かるほど、むっとする酒臭さが漂ってくる。
「て、店員~、ビール……もう2ダースなぁ……」
瓶をぶら下げた男が、呂律の回らない声で叫ぶ。
私は身を縮め、もっと奥へとじりじり下がった。
「ん?」
酒を持ったほうの男が振り向いた。
濁った目が、不意にぎらりと光る。
その視線が、まっすぐ私に張りついた。
男は肘で連れをつついた。
「おい見ろよ。迷子のお嬢ちゃんがいるぞ」
頭皮がぞわっと粟立つ。
私はくるりと背を向け、反対側から出ようとした。
でも、もう遅かった。
二人はふらふらしながら回り込み、狭い通路を前後から塞いでしまう。
「ひとりか、お嬢ちゃん?」
酒臭い息が顔にかかって、吐き気が込み上げた。私は慌てて身を引く。
「そんな薄着で寒いだろ? ほら、俺たちと一杯やればあったまるって」
「知りません。どいてください」
私は震えを押し殺し、できるだけ毅然と言った。
「一杯飲めば知り合いだろ?」
もう一人が、薄汚れた手をそのまま私の頬へ伸ばしてくる。
「触らないで!」
私は悲鳴を上げ、とっさにその男を突き飛ばした。
できた隙間へ体をねじ込み、そのままよろめきながらレジへ駆け込む。
「助けてください! お願いです、警察を呼んでください!」
スマホをいじっていた店員に、私は縋りつくように叫んだ。
店員はようやく顔を上げ、眉をひそめて私を見る。
そして、ひどく面倒くさそうに言った。
「買い物もしないで騒がないでくれる? 友達なら一緒に帰ればいいでしょ。営業の邪魔なんだけど」
――助けてくれない。
心が、一気に底まで沈んだ。
「聞いただろ?」
背後から男が笑う。
「店員さんも一緒に行けってさ」
次の瞬間、私の腕が万力みたいな手で掴まれた。骨がきしむほど痛い。
「離して! やめて、助け――」
ぱんっ。
鋭い平手打ちが、私の声を叩き潰した。
視界がぐらりと揺れる。口の中いっぱいに、鉄みたいな血の味が広がった。
そのまま男の一人が私を引きずり、外へ連れ出そうとする。
私は必死に店員へ向かって懇願した。
「助けて……お願い……あとでお礼します……いくらでも払いますから……!」
残った力を振り絞って、私はドア枠にしがみつく。
すると店員は、またうんざりした顔で口を開いた。
「金ないなら、旦那とさっさと帰ってよ。恋人同士の喧嘩なんてみんな迷惑なんだから。ほら、どいてどいて」
胸の奥が、すうっと凍りついた。
引っ張る力がどんどん強くなる。
指が少しずつドア枠から滑っていく。
そしてついに――私はそのまま、外へ引きずり出された。
