第2章 早く道を譲るべきだった
女の眼差しは揺るぎなく、そして決定的だった。――結城永司が、これまで一度も見たことのない表情。
いつからだろう。彼女はずっと、自分の前では従順で、気が利いて、時に卑屈なほどだった。
望月家の利益のため。金と地位のため。
だから嫁いできたのだと、永司はそう決めつけていた。
それなのに――本当に、手放すつもりなのか。
望月朝夜は胸の痛みを押し殺して言った。
「離婚協議書は、弁護士に作らせて。署名する。私は今すぐ出ていく。あなたたちの邪魔はしない」
言い終えると、彼女はもう彼を見ようともしない。踵を返し、そのまま歩き出した。
荷物はない。未練もない。
来たときと同じ、薄いトレンチコート一枚。背筋だけは真っ直ぐに伸ばし、すべてを捧げたのに一度も自分の家にならなかった場所を、一歩ずつ出ていく。
結城永司は、その決別の背中を眺め、眉をわずかに上げた。
望月朝夜にも、多少の意地はあるらしい。
手段は気に食わない。だが三年間、看病し支え続けた労はある。
本当に離婚となるなら、金くらい渡してもいい――そう思いかけた、その時。
隣の相馬万珠が、そっと永司の袖を掴んだ。声は今にも泣きそうで。
「永司さん……私のせいで、朝夜さんと喧嘩に……」
その一言で思考が断ち切られ、永司は追いかけなかった。
夜の闇へ溶けていく、朝夜の寂れた背を。
——
屋敷の外は、冷たい夜だった。
望月朝夜の姿は闇に呑まれ、やがて見えなくなる。
ほどなく彼女は望月家の別邸へ辿り着いた。
最後の別れをするためだ。
深秋の夜風が、薄いコートを容赦なく貫く。けれど彼女が感じる寒さは、その何千倍も深い。胸の奥を凍らせる冷え。
インターホンを押す。
出てきた使用人は、彼女の顔を見た瞬間、驚きと侮蔑を隠しもしなかった。
「……お嬢様? どうしてお戻りに?」
その「お嬢様」には、あからさまな嘲りが混じっている。
望月家が本物の令嬢・相馬万珠を取り戻してから、二十年以上「偽の令嬢」だった朝夜の立場は地に落ちた。結城の爺さんの圧がなければ、持ち物ごと捨てられていたはずだ。
朝夜は取り合わず、そのままリビングへ入る。
そこには望月当主、望月奥さん、そしてかつて実妹のように彼女を守ってくれた兄・望月子南。三人がソファで談笑していた。
朝夜が姿を見せた瞬間、温かな空気が凍り付く。
望月奥さんが露骨に眉をひそめた。
「どうして帰ってきたの? 今日は万珠の具合が悪くて、永司に病院へ付き添わせたの。あとで戻るから、余計なことしないで。万珠を不機嫌にさせないでね」
胸に、また棘が刺さる。
相馬万珠は結城家で「柔らかさ」を演じ、望月家に戻っても同じだ。
一方で、自分は結城永司を治し、望月家と結城家の関係を繋いだのに――邪魔者扱い。
朝夜の声は氷のように冷え切っていた。
「知らせに来ただけ。私、結城永司と離婚する」
リビングが水を打ったように静まる。
数秒後、望月当主が勢いよく立ち上がり、指を突きつけて怒鳴った。
「この愚か者! 何を言ってる! 離婚だと? 誰が許す! 結城の爺さんが認めると思うのか!」
望月奥さんも眉を寄せ、不満顔で吐き捨てる。
「望月朝夜、またお嬢様気取りの癇癪? 永司みたいな男なら、側に女が何人かいるのは普通でしょ。妻なら大らかになりなさい」
大らかに?
笑わせる。
「普通?」朝夜は冷笑し、三人を見回した。「じゃあ私は相馬万珠に感謝すればいいの? 妻の『苦労』を分担してくれてありがとうって」
望月子南が跳ねるように立ち上がり、声を荒げた。
「朝夜、万珠のことをデタラメ言うな! 永司と万珠のことなら俺が一番分かってる。二人は清廉潔白だ! 万珠は誰と一緒にいようが、お前の夫を奪うような真似は絶対しない!」
その言葉に、望月奥さんの眼差しはさらに鋭くなる。
「望月朝夜! 私たちが育てたのに、どうしてこんな人間になったの。男の心を繋ぎ止められないくせに万珠に当たるなんて。いい? 離婚なんて許さない。望月家の恥になる!」
恥?
朝夜は周防雅美を見据え、一語一語を噛みしめるように問い返した。
「私が結城永司と離婚したら、結城の爺さんが望月家との提携を切るのが怖いんでしょ?」
望月当主の顔が、見る見る青黒くなる。図星だ。
「……お前、この親不孝者! 二十年以上育ててやった恩をそんなふうに返すのか! 望月家がなければお前は結城永司に嫁げなかっただろう!」
朝夜は深く息を吸い、喉の詰まりを押し殺した。
「私を商品みたいに扱って望月家の利益と交換して、私が薬の試験で身体を壊しても心配の一言もなかった。今、結城永司は治って、あなたたちの宝物・相馬万珠も戻った。……偽の令嬢は、本物に席を譲れってことね」
その言葉が、この家の最後の薄い覆いを引き剥がした。
望月当主が逆上し、手を振り上げる。
「黙れ!」
朝夜は避けなかった。ただ冷たく、その利にだけ生きる男を見返す。
だが、その平手は結局落ちてこなかった。
止めたのは望月子南だ。だが彼の口から出た言葉は、平手以上に痛い。
「朝夜、分かってるなら大人しくしろ。お前は万珠の人生を二十年以上奪った。離婚するなら爺様に話して、結城奥さんの座を万珠に譲れ。爺様に望月家が怒られるのはごめんだ」
あまりにも当然の口ぶり。
――最初から、自分の犠牲は「当然」だったのだ。
望月朝夜の心が、完全に死んだ。
この一家の顔が、吐き気がするほど醜く見える。
「今日は同意を取りに来たんじゃない。あなたたちがどう思おうが関係ない。これから私は、望月家とは一切無関係」
淡々と、朝夜はそう言った。
三人の顔色が一斉に変わる。
「許さん!」望月当主の声が震える。
「どうして?」朝夜は静かに問い返す。「二十年以上育てた? 私は結城永司を治して、望月の会社が危機のとき大口投資を引き込み、この三年あなたたちに数え切れない贅沢を与えた。もう返し終えてる。……それに、私の研究成果は……」
