第3章 そんなに男が足りないの?

望月朝夜の視線が、望月家の当主に突き刺さった。

「結城永司の治療のために、私は契約書にサインした。三年間、研究成果の一切は望月グループのもの。……でも、その三年がもうすぐ終わる。これから私が何をしようと、あなたたちには関係ない。今日は私の物を取りに来ただけ」

彼女が以前、望月グループで率いていた医薬チームは、朝夜と恩師が一から築き上げたものだった。

最初から望月家の力など借りていない。特許料だって取らなかった。

表向きは「望月グループ傘下」。だが、外からは見えないだけで――望月家が伸し上がれた最大の要因は、彼女そのものだった。

それが三年前。

結城永司が、稀な病で突然倒れた。

下半身の麻痺が断続的に起き、回数は増え、やがて植物状態にまで落ちた。

望月朝夜は迷わず結城永司に嫁いだ。

薬を開発し、結城永司を治した。

そして望月家のために、「三年間は望月グループ名義で署名し、研究内容は秘匿する」と呑んだ。

――だが、もう続ける気はない。

彼女のものは、彼女に返るべきだ。

「でも」

望月朝夜の声が、刃物みたいに鋭くなる。

「祈ったほうがいい。私の後続治療なしで、結城永司の病が再発しないようにね」

結城永司の病の根は、戦後の心理外傷を起点にした神経系の乱れ。

薬で抑えることはできても、根治はできない。投薬の調整――その最も肝心な部分を把握しているのは、彼女だけだった。

望月当主の顔色が、さっと変わる。

分かっているのだ。

望月グループが結城家と繋がれたのは、望月朝夜の独占技術があってこそ。

彼女が去れば、望月家は何を手土産に、結城家へ取り入るつもりなのか。

「望月朝夜……脅す気か?」

「事実を言ってるだけ」

朝夜は取り合わず、そのまま階段を上がった。恩師の遺品をまとめ、荷物を詰め、スーツケースの取っ手を引く。

「これから先、私たちに関係はない」

そう言い捨て、振り返りもしないまま玄関へ向かった。

ドアを開けた瞬間――強烈なヘッドライトが目を射抜く。

見慣れた黒いベントレーが、門の前にゆっくりと止まった。

ドアが開き、運転席から結城永司が降りる。

反対側へ回り、紳士然と助手席のドアを開けながら、朝夜へ冷たい一瞥を投げた。

――結城家では「手ぶらで出る」と啖呵を切ったくせに、すぐ望月家へ戻った。

望月家に入れ知恵させて、もっと毟り取るつもりか。

甘く見ていた。

こいつは、思った以上に腹が黒い。

相馬万珠が車から降りる。

結城永司は淡々と視線を引き、何かを思い出したようにスマホで秘書へ短いメッセージを送った。それから万珠を見て、彼女の肩に掛けた自分の外套を整えてやる。

――万珠は、望月家の空気に染まっていない。

これからは、あそこへ近づけないほうがいい。

車灯に照らされた結城永司の横顔はくっきりとして、仕草は甘いほど優しかった。

望月朝夜は門の前で、その二人を見つめた。

全身から力が抜けていくのが分かる。

彼女は視線を切り、スーツケースを引いた。

一度も振り返らず、無辺の夜へ歩き出す。

結城永司。望月家。

――さようなら。

人生はまだ長い。

結城永司への感情に、沈み続けるわけにはいかない。

望月朝夜は深夜の街を、宛てもなくスーツケースを引いて歩いた。

ネオンは眩しく、車は途切れない。けれど、自分のために灯る明かりは一つもなく、止まってくれる車もない。

ポケットのスマホが震えた。銀行からの通知だ。

結城永司が、彼女名義のカードをすべて凍結した。

考えるまでもない。

頭を下げて戻って来い――そういう脅しだ。

望月朝夜は唇の端を冷たく歪める。

自分は、誰かに握られるための柔い柿じゃない。

手も足もある。誰にも負けない専門知識もある。飢え死にするはずがない。

ただ今は、身を置ける場所が必要だった。

息を吐ける場所が。

ひとまずホテルでも探そう――そう思って歩き出しかけたとき、背後から、ためらい混じりの懐かしい声がした。

「……朝夜?」

望月朝夜の足が止まる。身体が強張った。

ゆっくり振り返ると、街灯の下に男が立っていた。

仕立ての良いカジュアルスーツ。背筋の通った長身。

整った顔立ちが、不確かさと喜びを滲ませている。

「林田修……?」

朝夜は目を疑った。

幼なじみで、少女時代の親友。

海外で学んでいた頃、唯一の心の支え。

三年前、彼が留学してから連絡は途絶えていた。

「やっぱり君だ!」

林田修が駆け寄る。瞳の喜びが弾けるように増した。

「今日着いたばかりでさ。明日どう連絡しようかって考えてたのに、まさかここで会えるなんて。どうしたんだ? こんな時間にスーツケースなんて……」

視線が彼女の青白い顔、腫れた目元に落ちた瞬間、林田修の笑みが消える。

「……何かあったのか?」

再会の嬉しさは、現実の惨めさに押し流された。

その心配そうな眼差しを見た途端、朝夜が必死に積み上げてきた強がりが崩れそうになる。

鼻を啜り、どうにか笑った。

「ううん……ただの引っ越し」

林田修は信じない。薄い服と、孤独な荷物を見れば一目瞭然だ。

「結城永司は? 一緒じゃないのか」

その名を聞くだけで胸が痛む。

答えようとした――その瞬間。

キィィ、と耳を裂くようなブレーキ音。

黒いベントレーが獣みたいに乱暴に路肩へ滑り込み、止まった。

窓が下り、結城永司の顔が覗く。暗く、冷たい。

視線は望月朝夜と林田修に固定され――特に、林田修の手が朝夜の腕に触れているところへ突き刺さっていた。

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