第6章 業界追放
「ゴミ」という言葉が、望月朝夜の耳に突き刺さった。
神経の先まで、ひきつるように痛む。
あの手稿は、彼女が三年かけて積み上げた血と汗の結晶だ。数え切れない失敗の果てに掬い上げた、貴重なデータの山。
恩師から譲り受けた文献は、市場からとっくに消えた絶版の孤本で、朝夜が何より大切にしてきた宝物。
それを――こいつの口から出た瞬間、ただの「ゴミ」になる?
副部長の脂ぎった得意顔を見ていると、胸の奥で怒りが渦を巻いた。
だが、ここで爆発しても意味はない。相手を喜ばせるだけだ。
朝夜は一度、感情を沈めてから口を開く。
「副部長。今日は退職の引き継ぎに来ただけです。あなたの無駄口を聞きに来たんじゃありません。私物――私のPCも含めて、今すぐ返してください」
冷えた声に、副部長がわずかに怯んだ。
彼の知る望月朝夜は、技術は化け物じみていても、性格は丸くて揉め事を嫌う。ところが今日は、別人みたいだ。
「お……お前、クビなんだぞ。引き継ぎって何だよ」
副部長は首を突き出し、強がって言い返す。
「解雇は望月会長の判断です。でも、このチームを育てたのは私です」
朝夜の視線が、副部長の背後へ流れる。様子を窺っている研究員たちへ。
「引き継ぎなしで回せますか? 何か起きたとき、『もう辞めた人間』に責任を押し付けるつもりなら、なおさら困るでしょう」
副部長は、まさにそれを狙っていた。
相馬万珠が連れてきたチームは、まだ完全に引き継げていない。研究所の核心プロジェクトは、朝夜が築いた土台にぶら下がったままだ。
ここでコケれば、真っ先に火の粉をかぶるのは副部長――。
周囲の研究員たちも、ひそひそとざわめき始める。
朝夜に直接指導を受けた者も少なくない。望月家の「用が済んだら切り捨てる」やり方を目の当たりにし、内心では朝夜に肩入れしている者もいる。
副部長の顔が歪んだ。
朝夜がここまで食い下がるとは思っていなかったのだ。
朝夜はこれ以上時間を無駄にせず、淡々と畳みかける。
「私のオフィスへ案内しますか。それとも、望月会長からあなたに直接電話させましょうか」
当主の名が出た瞬間、副部長の肩が落ちた。
どれだけ小賢しく立ち回っても、結局は雇われに過ぎない。
「……ついて来い」
不満を隠しきれない声で背を向け、歩き出す。
朝夜が後ろにつき、オフィスまで辿り着く。
ドアプレートはすでに「相馬万珠」へ差し替えられていた。
扉を開けると、中は見事に「整理」されている。
彼女の物は、部屋の隅の段ボールに雑に放り込まれていた。
朝夜は段ボールの前にしゃがみ込み、静かに掻き分ける。
――よかった。文献も手稿も、まだ残っている。
重要な書類だけを数枚抜き取り、持ってきたバッグにしまう。そして机上のPCに目を移した。
「PCのデータをコピーして、引き継ぎをします」
「はいはい、早くしろ」
副部長は苛立ったように急かし、盗人でも見るみたいに朝夜の手元をじっと睨んだ。
朝夜は相手にせず、PCを立ち上げてUSBを挿す。
彼女が操作に集中した、その隙。
副部長の目がぎらりと光った。
「いやあ、荷物多くて大変そうだな。箱の中、整理してやるよ」
そう言って勝手にしゃがみ込み、段ボールをがさがさと漁り始める。
身体で視界を遮りながら、ポケットから同じ見た目のファイルを取り出し、朝夜が脇に置いた実験報告書とすり替えた。
ほんの数秒。誰にも気づけない速さ。
さらに、朝夜がコピー作業に意識を向けている間に背後へ回り、キーボードを素早く叩く。小さなプログラムを仕込み、何事もなかったように元の位置へ戻った。
朝夜はコピーを終えて立ち上がる。
「引き継ぎは終わりました。私のチームの人間を、私がいなくなったあとも苛めないでください。研究しか知らない子たちです。余計な駆け引きに巻き込まないで」
忠告であり、警告。
副部長は口元だけで笑った。
「望月先生、ご安心を。分かってますよ」
朝夜はそれ以上言わず、段ボールを抱えて研究所を出た。
三年間、心血を注いだ場所。振り返りもしないまま。
……
彼女が去ってほどなく、副部長は人のいない会議室へ滑り込み、扉を閉めて電話をかけた。
頬の肉を寄せ、媚びるように笑う。
「ご指示の件、全部終わりました。書類は差し替えましたし、PCにも仕込みました……ええ、完璧です。これで『結城家の営業機密を漏洩した』って罪、二度と言い逃れできませんよ。百口あっても無理です」
……
それから数日、望月朝夜は仕事を探し始めた。
履歴と能力があれば、研究職などすぐ見つかる――そう思っていた。
だが現実は、遠慮なく頬を張ってきた。
十数社に送った応募書類は、すべて音沙汰なし。
ようやく面接に進めた二社も、最終で「職務適性が合わない」という名目で落とされた。
一度なら偶然。二度は運。
三度、四度となれば――人の手が動いている。
五回目の面接。
面接官は朝夜の履歴書を見つめ、惜しむように首を振った。
終了後、帰ろうとした朝夜を呼び止め、迷った末に声を落として言う。
「望月さん。あなたの経歴は本当に素晴らしい。本来なら、ぜひ来ていただきたい。でも……申し訳ありません。採用できません」
「理由は?」
「業界が狭いんです」
中年の女性はため息をつく。
「結城グループと望月家、両方から話が回ってます。誰も逆らえない。……転職するか、それとも……頭を下げるしか」
ビルを出る。外はよく晴れているのに、朝夜の身体は芯まで冷えた。
徹底的に潰すつもりだ。
資産を凍結され、権限を奪われ、今度は生きる道まで塞がれる。
追い詰めれば、尻尾を振って戻るとでも本気で信じているのか。
朝夜は通りに立ち、ガラス壁に映る自分の影を見て――ふっと笑った。
思考も意思もない、操り人形になれ?
寝言は寝て言え。
その日から朝夜はアパートに籠もり、ほとんど眠らなかった。
研究所から持ち帰った段ボールの中身を床いっぱいに広げる。
手稿、文献、データ報告。
一枚一枚が、過去三年の心臓だ。
これを整理し直す。
いまの彼女に残された唯一の資本であり、世界と戦うための武器。
目の下の隈は濃くなる一方で、カフェインも効かなくなっていく。
頭は重く、霞がかかったように鈍い。
まともに食事をしたのがいつだったか、もう思い出せない。
身体も抗議を始めた。
下腹が、ときおりずしりと痛む。
来るはずの月のものは、もう半月以上遅れていた。
