第10話

「最低!」

梨乃は和也の背中に向かって吐き捨てるように言うと、痛ましげな目で葵を見つめた。

「葵……」

葵は淡く微笑んだ。

「彼の選択は、最初から変わっていない。そうでしょう?」

「そんなことない! 和也の見る目がないだけよ。あんな奴、絶対に後悔するんだから」

梨乃は反論しながらも、再びそっと葵の顔色を窺う。

(和也たちがここに来ると知っていれば、絶対に来なかったのに)

葵は笑って言った。

「これでよかったの」

和也の存在は、胸に深く刺さった棘のようなもの。彼女は今、それをゆっくりと引き抜いている最中だった。

彼が躊躇いなく雪菜のもとへ駆け出すたび、自分の中に残る最後の未練を断ち切ってくれているのだから。

和也が足早に病室へ飛び込むと、雪菜がフルーツナイフを握りしめていた。切っ先を細い手首に向け、虚ろな瞳で何事かを呟いている。

「お母さんも私をいらないって……和也も私をいらない……もう死んじゃおう。死ねば、全部楽になる……」

和也は咄嗟にナイフを奪い取った。背筋が凍るような恐怖から、声が強張る。

「自分が何をしているか、分かっているのか!」

「和也……」

雪菜は顔を上げ、涙に濡れた瞳で彼を見つめた。

「生きていても、つまらないの。死にたい……お願い、私を死なせて?」

そう言って、彼女は再びナイフに手を伸ばそうとする。

和也は彼女を腕の中に引き寄せ、きつく抱きしめた。

「ずっとお前の面倒を見るって言っただろ。俺はここにいる。雪菜、生きるんだ。一緒にこの世界を見るって約束したじゃないか」

彼は雪菜の髪をゆっくりと撫で、その感情を落ち着かせようとした。

やがて、雪菜は少し落ち着きを取り戻した。

彼女は顔を上げ、和也をじっと見つめる。

「ずっと私のそばにいてくれるよね? 私が一番大切で、他の誰かのために私を見捨てたりしない……和也が愛してるのは、私だよね?」

和也の動きがピタリと止まった。

脳裏に、冷え切って愛の欠片もなくなった葵の瞳がフラッシュバックする。

彼は胸の奥に生じた違和感を押し殺し、雪菜の頬を伝う涙をそっと拭った。

「世界トップクラスの心理カウンセラー、NAに連絡を取った。お前は絶対に良くなる」

雪菜は和也の背中に腕を回し、強くしがみついた。

「和也……私には、あなたしかいないの」

和也は何も答えず、ただ彼女を抱きしめ返した。

なぜだろうか。心にぽっかりと穴が空いたような気がする。何かを掴みたいのに、何を掴めばいいのか分からない。

雪菜を寝かしつけ、和也は病室を出た。

物音に気づき、烈が振り返る。

「落ち着いたか?」

和也は氷のような視線を彼に向けた。

烈はふっと笑い、煙草を取り出して火をつけると、深く吸い込んだ。

「梨乃を攫ったのは俺だ。雪菜が苦しむのを見ていられなかったからな。和也、お前が雪菜を好きなら、あいつに惨めな思いをさせるべきじゃない」

和也は何も言わず、沈黙したまま烈の横を通り過ぎようとした。

烈はすかさず後を追う。

「どこへ行く? 葵のところへ行く気か?」

和也は足を止め、冷ややかな目で烈を振り返った。

「なぜ防護ネットを開けて、サメを入り込ませた? もし今日、彼女が死んでいたら、お前たちがどうなるか分かっているのか」

烈は一瞬呆気にとられたが、すぐに鼻で笑った。

「どうせ葵を庇う奴なんて誰もいない。お前さえ口出ししなければ、ただサメに食い殺されたってだけで、俺たちには何の関係もない事故だ。和也、雪菜にはお前が必要なんだ。お前だって、雪菜が死ぬのを見たくはないだろ?」

和也は眉間を深く寄せ、再び沈黙に沈んだ。

長い間の後、和也は口を開く。

「綺麗に片付けろ。痕跡は残すな」

烈はニヤリと笑った。

「だからお前の力が必要なんだよ。この島全体がお前のものなんだから、ちょっとした後始末くらい頼めるだろ?」

和也は彼をじっと睨みつけ、やがて大股で自分のヴィラへと戻っていった。

島を管理する責任者が待ち構えており、和也の姿を見るなり駆け寄ってきた。

和也は有無を言わさぬ声で命じる。

「監視カメラの映像を消せ。スタッフたちには余計な口を叩かないよう釘を刺しておけ」

和也の指示に、責任者は一瞬呆然としたが、すぐに我に返り、恐る恐る尋ねた。

「あの……奥様には、どう説明を……」

「あいつが知る必要はない」

和也は冷たく言い放った。

「承知いたしました」

責任者は深く頭を下げたが、その胸の内に冷たいものが走った。

愛人のために、妻の生死すらどうでもいいと言うのか。この藤原社長という男は、どこまで冷酷なのだろうか。

自分のヴィラに戻っていた葵のもとに、ほどなくして情報がもたらされた。

島の監視カメラが故障し、梨乃が誘拐された映像は残っていないという。

サメが侵入した件についても、一部のエリアで電圧が不安定になり、フェンスが突破されたためだとされた。

たった数回のやり取りで、サメの出現はただの事故として処理され、梨乃の誘拐すら『なかったこと』にされたのだ。

何の証拠も残っていない。

梨乃は怒りのあまり、今すぐ和也を刺し殺しに行きそうな勢いだった。

一方の葵は至って冷静で、優雅にお茶を淹れる余裕すらあった。

「葵」

梨乃は彼女の隣に座り、その腕に抱きついて不満をぶちまけた。

「和也の奴、マジで人間のクズ! あいつをギャフンと言わせる方法、何かないの!?」

葵は自嘲気味に笑う。

「どうやって? ここは彼のテリトリーよ」

梨乃はますます葵が不憫になった。

「葵が本当の奥さんなのに、愛人のためにあんたをこんなにコケにするなんて! あんな奴、死ねばいいのに!」

「はいはい」

葵は梨乃の頭をポンポンと撫でた。

「価値のない人間のために怒らないの。後でここを出ましょう。これからは、奴らとは関わらないようにするわ」

「でも、あんたが受けた屈辱はどうなるのよ」

梨乃が小声で不満を漏らす。

葵は自分の口座の残高を彼女に見せた。

「私にとって、和也はもう何の価値もないわ。彼と離婚すれば、かなりの財産分与が入る。お金さえあれば、何だってできるもの」

今は和也に勝てないかもしれない。だが、これからもずっと泣き寝入りするつもりは毛頭なかった。

その時、ジョンが戻ってきた。

彼は肩を落とし、首を横に振る。

「ごめんなさい。あの時ダイビングエリアにいた人たちに聞いて回ったんですが、誰も酒井さんが攫われるのを見ていないって……」

「クソッ! 和也の奴、どんだけ図太いのよ。雪菜のためなら、ほんと手段を選ばないわね」

梨乃が毒づく。

葵は苦く笑った。

(和也の愛って、こういうものなのね。雪菜のためなら、どこまでも底なしに堕ちていけるんだ)

ピコン――

突然、スマートフォンが鳴った。

葵が画面を一瞥すると、裏アカウント宛てにメッセージが届いていた。

見覚えのあるアイコン。葵はしばらくそれを見つめた後、アプリを開いた。

やはり、和也だった。

【NA先生、初めまして。私の妻が重度のうつ病を患っており、ぜひ先生に治療をお願いしたく――和也】

妻?

彼の中では、雪菜が『妻』なのだ。

葵の指は長い間画面の上で止まっていたが、やがて彼女は奥歯を噛み締め、そのフレンド申請を拒否した。

スマホを放り投げ、虚ろな目で宙を見つめる。

涙が、コントロールを失ったようにポロポロとこぼれ落ちた。

「葵、どうしたの!?」

さっきまで勢いよく和也を罵っていた梨乃は、葵の涙を見て途端に慌てふためいた。

ティッシュを引き抜いて葵の涙を拭いながら、必死に慰める。

「もう和也の悪口言わないから、泣かないでよ。あんたが泣くと、私まで胸が痛くなるじゃない」

ジョンも傍らで慰める。

「姉さん、あんな価値のない男のために悲しむことないですよ。姉さんはこんなに素敵なんだから、和也は絶対に後悔しますって」

二人がかりで必死に慰めてくる様子に、葵は思わず吹き出した。

「違うの、嬉し泣きよ。雪菜に復讐するチャンスがないって思ってたけど……向こうから転がり込んできたわ」

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