第2話
夜。葵はパソコンに向かい、離婚協議書を打ち始めた。
藤原家の金など一円も要らない。財産分与の欄は空白のまま。だが「離婚理由」の欄に指を置いたときだけ、数秒止まった。
和也との三年間の、夫婦でありながら何もない結婚。
葵は打ち込む。
【夫は妻の正常な生理的要求を満たせず、婚姻関係は名目上のものに過ぎない。】
翌朝。荷物をまとめて階段に向かうと、リビングから雪菜の高飛車な声が響いた。
「何回言えばわかるの? 私、淹れたての豆からのコーヒーしか飲まないんだけど!」
葵は足を止めず、螺旋階段を下りる。
リビングでは、雪菜が昨日の和也の白いシャツを着ていた。裾は臀部が隠れる程度で、すらりとした脚がむき出しになっている。
台所の入口にもたれ、女主人みたいに家政婦の田中へ指示を飛ばしている。
髪は少し乱れ、気怠げな色香を漂わせている。首筋の側面にははっきりと赤い痕。
足音に気づいた雪菜が振り返り、葵を見て挑発的に笑う。
「葵、昨日あんまり眠れなかった? 顔色、すごく悪い」
指先がさりげなく首筋を撫でる。
「一人で寝ると眠れないよね。昨日ね、和也には何度も『大丈夫』って言ったのに、心配だって。結局、私の部屋に残ってくれたの」
葵は口角を少し引いたが、何も言わない。
田中がコーヒーを運んできて、葵を見ると気まずそうに頭を下げた。
「奥様、申し訳ありません。九条様のコーヒーを先に……朝食はすぐ――」
「いいの」
葵は平静に言った。
「もう、用意しなくていい。これから先も」
そして雪菜へ目を向ける。シャツに落ちた視線が冷える。
「九条様、その格好のほうが……ストッキングよりよほどお似合い」
雪菜は眉を上げた。
「葵、あなたたちが結婚したところで、和也の心にいるのは最初から私だけよ」
「ええ、敵わないわ」
葵は彼女の首の痕を一瞥し、底意地の悪い嘲りを滲ませる。
「母親が亡くなったばかりで、人の夫のベッドに潜り込むなんて。男がいないと生きられないの? 九条家のお嬢様は」
「……っ!」
雪菜の顔色が青くなったり紫になったりする。九条家は上流階級でもそれなりに名が通っている。プライドを踏みにじられたのだろう。
次の瞬間、雪菜は田中の手から淹れたてのコーヒーを奪い取り、葵に向かって勢いよく振りまいた。
葵は反射的に身をひねる。顔にはかからなかったが、手の甲に熱い液体がはね、じりっとした痛みが走った。皮膚が一気に赤く腫れる。
葵が手を押さえた、その直後。
雪菜の表情が一瞬だけ歪み、次いでカップを床に叩きつけ、自分も悲鳴を上げながらよろめいて尻もちをついた。
「葵……私は、あなたに出て行かないでって言っただけなのに。どうして叩くの……?」
さっきまでの傲慢さが消え、可哀想な被害者の顔で涙を滲ませる。
何が起きたのか理解しきれない葵の背後から、氷のような声が刺さった。
「葵、何をしている!」
振り返ると、和也が駆け寄り、雪菜を抱き起こしていた。
「和也……手が痛い……」
雪菜は彼の胸で泣き崩れ、白い手首を差し出す。
「葵に……叩かれて、コーヒーもかけられて……」
和也は葵を睨みつけた。目つきが凶悪に沈む。
「葵! お前、何考えてる!」
理非もなく怒鳴りつける。
「雪菜の手は絵を描く手だ。怪我したらどうする……お前に責任が取れるのか!」
葵は呆然と彼を見た。
手の甲の痛みより、胸の奥を焼く言葉のほうが何倍も痛い。
彼の目も心も雪菜だけに向いている。彼女の才能を守り、未来を案じる。
――葵の手だって、かつて師に「生まれつきデザインのための手だ」と褒められた。
オファーを捨て、デザイン画をしまい込み、輝いていた才能を埋めた。全部、この名ばかりの結婚のために。
葵は火傷した手を一度だけ見下ろし、ふっと笑った。悲しさと嘲りが混ざった笑い。
「和也」
顔を上げ、怒りに満ちた目を正面から受け止める。表情は麻痺していた。
「信じる信じないは勝手。でも私は手を出してない」
雪菜がすぐに嗚咽を強める。
和也は彼女をあやしながら、なおも葵を責め立てた。
「雪菜が自分で火傷して、お前を陥れるとでも? 葵、お前がここまで陰険だとは思わなかった。さっさと謝れ」
「謝る?」
葵は滑稽なものでも聞いたように、スーツケースのサイドポケットから書類封筒を抜き出し、和也の前に突き出した。
「謝らない。これにサインして。今日から先、あなたと雪菜がどうなろうと私には関係ない」
和也は封筒から離婚協議書を引き抜き、目を走らせる。
「離婚理由」の欄を見た瞬間、瞳孔がきゅっと縮んだ。次の瞬間、協議書を真っ二つに破り捨て、床へ投げた。
「葵……ふざけるな。どういう意味だ」
「藤原社長、字が読めないの?」
葵は破れた紙を拾い上げ、薄く笑う。
「読んであげようか?」
雪菜が状況を掴めず、きょとんと和也を見る。
「どうしたの、和也? あなた、前から離婚したいって言ってたじゃない」
和也は中身を説明せず、冷えた声で言った。
「離婚理由を書き直せ。じゃないとサインしない」
「いいわ」
葵は雪菜に目を走らせ、和也へ戻す。ゆっくりと言葉を選ぶ。
「その理由が気に入らないなら、事実として――あなたのポケットから他の女のストッキングが出てきたって書けばいい。メディアは大喜びでしょうね」
「やめろ!」
和也の目が殺意じみて歪む。
「どうして?」
葵は一歩も引かない。
「私はもう失うものがない。でも藤原グループのイメージと……あなたが抱えてる九条様の名声は? 引き延ばすなら、最後まで付き合う」
リビングが死んだように静まり返った。
和也は葵を睨み続ける。まるで初めて見る女のように。
彼の中の葵は、藤原家にすがりついて生きるだけの存在だ。自分に条件を突きつける資格などあるはずがない。
葵は時間を無駄にしたくなかった。スーツケースを引き、玄関へ向かう。
「離婚協議書は改めて送る。藤原社長、早くサインして」
淡々と言い捨て、振り返りもせず出て行った。
