第3話
葵はタクシーに乗り込むと、即座に和也の連絡先をすべてブロックした。
「ミカンアダルトまで」
ミカンアダルト。
市内最大級のアダルトグッズ専門店である。
葵が入り口に姿を見せるなり、店主の目を引いた。
店主はスマホを放り出して店から出てくると、段差の上から葵を値踏みするように眺め、口元を隠して艶っぽく笑った。
「自分用の、手動の彼氏でも探しに来たの?」
葵は店内へ視線を向け、意味深に笑う。
「夫の相手を探しに」
「……は?」
店主は目を丸くして固まった。
葵はすでに彼をやり過ごし、店内へと足を踏み入れている。
所狭しと並ぶ商品をぐるりと見渡し、まだ呆然としている店主を振り返った。
「男が使うもの、全部一つずつ包んで」
「あ、はいっ」
我に返った店主は、慌てて商品の梱包に取りかかった。
葵はペンとメモ用紙を見つけ、住所を書きつける。
「まとまったら、ここへ送って」
一方、その頃。
葵が出て行ったあとも、和也は取り乱すようなことはなかった。
どうせ一時の癇癪だ。気が済めば自然と戻ってくる。ただ――
和也は例のストッキングを見つめ、眉間を深く寄せた。
外でふれ回られ、雪菜の評判に傷がつくようなことだけは絶対に避けなければならない。
和也は雪菜へ優しい眼差しを向けた。
「先に休んでて。俺は会社に行ってくる」
雪菜は彼の胸に飛び込み、その腰にぎゅっと腕を回した。
顔を上げ、涙で潤んだ瞳で縋るように見つめてくる。
「行かないで……私、怖い」
震える身体を感じ、和也の胸に痛みが走る。
だが結局、彼は雪菜の肩をそっと引き離した。
「葵にちゃんと説明してこないと。あいつの作り話で、君の名誉が傷つくのは許せない」
「でも……」
雪菜が言いかけた瞬間、和也のスマホに通知音が鳴った。
何気なく視線を落とす。
次の瞬間、眉が跳ね上がった。
アダルトグッズ?
詳細を確認する間もなく、立て続けに決済通知が流れ込んでくる。
全部、アダルトグッズだと?
――葵。
あいつ、こんなものを買ってどうする気だ。
和也はスマホを握り潰さんばかりに力を込め、手の甲に青筋を浮かべた。
「どうしたの……?」
険しい表情に気づき、雪菜がおずおずと尋ねる。
和也は瞬時に怒りを押し殺し、笑って首を振った。
「何でもないよ。会社で少しトラブルがあってね。先に行くから、ゆっくり休んでて」
そう言い残し、振り返ることもなく足早に出て行く。
逃げるようなその背中を見送りながら、雪菜は眉をひそめ――やがて、その瞳に冷酷な光を走らせた。
和也は車に乗り込むなり、葵に電話をかけた。
だが何度かけても『お繋ぎできません』のアナウンスが流れるだけだ。
会社に着いてもなお、葵とは連絡がつかなかった。
ガンッ――!
苛立ちに任せてスマホを床に叩きつける。画面が真っ暗になった。
彼は顔を上げ、傍らの秘書を睨みつけた。
「お前の携帯を貸せ」
受け取ってすぐに発信画面を開いたものの、次の瞬間、指がピタリと止まる。
その目に戸惑いがよぎった。
「……葵の番号、何だっけか」
それを聞き、秘書の建は一瞬驚いたものの、すぐに納得した顔になった。
普段から藤原社長は奥様に対して無関心だ。番号を知らなくても無理はない。
建は葵の番号を検索し、再びスマホを和也へ差し出した。
コールのあと、すぐに繋がった。電話の向こうから葵の柔らかい声が聞こえる。
「小林さん? どうしたの」
「葵!」
和也は歯噛みしながらその名を呼んだ。
和也の声だと気づき、一拍の沈黙が落ちる。葵の声がすっと冷えた。
「……何の用?」
和也はズキズキと痛むこめかみを押さえ、掠れた声で問い詰める。
「お前、あんなに大量の……あんなものを買って、何をする気だ」
葵は鼻で笑った。
「すぐ分かるわ。次に藤原社長から電話をもらう時は、役所に行く日時であってほしいわね」
ツーツー。
一方的に切られた。
和也は呆然と画面を見つめる。
俺をブロックしたのか……?
今までにない得体の知れない不安が心の底から湧き上がり、じわじわと心臓を締めつけていく。
いや、違う。どうせ駆け引きだ。
あれだけ必死に取り入って俺と結婚した女が、そう簡単に離婚など口にするはずがない。
胸の内の苛立ちをどうにかねじ伏せ、和也はスマホを建に返した。
「広報部に伝えろ。葵のSNSを常に監視し、雪菜に関する投稿が出たら即座に揉み消せ」
建は頷く。
和也の眉間に刻まれた深いシワを見て、建は思わず口を挟んだ。
「藤原社長、奥様はずっと社長のことを気にかけておられました。今回の件も何かの誤解では……その」
「建」
和也は氷のような声でその名を呼んだ。言葉の端々に無言の警告が滲む。
「あいつがどういう人間か、俺が一番よく分かってる」
策略を巡らせて俺の妻の座に収まったような女だ。虚栄心の塊でしかなく、本気で俺を心配しているはずがない。
どうせ、俺からもっと何かを搾り取ろうとしているだけだ。
「下がって自分の仕事に戻れ」
和也は冷たく言い放った。
建は小さくため息をつき、おとなしく社長室を後にした。
一時間後。
段ボール箱を抱えた配達員が藤原グループのロビーに現れた。
予約がないため中には入れないが、伝票の備考欄には『止められたら商品名をすべて読み上げろ』と指示がある。配達員は仕方なく伝票を取り出し、行き交う社員たちの前で読み上げ始めた。
「藤原和也様宛ての即配で……ご注文の商品は、せ、セクシー下着セット……それから……持続タイプ……」
配達員は顔を真っ赤にしながらも、たどたどしい口調で必死に読み続ける。
そのときエレベーターが『チン』と鳴り、和也が数名の役員を引き連れて降りてきた。
受付から連絡を受けたばかりの建がロビーの惨状を目にし、小走りで和也の前に立ち塞がる。
「藤原社長! この後すぐ会議が入っていたのを失念しておりました。先に上へ戻って会議を済ませてから外出されては――」
だが、その言葉を遮るように配達員の声が響き渡った。
「……藤原和也様ご注文の……サイズ調整可能……手錠……低温キャンドル……」
藤原和也?
それは、俺のことか?
和也は鋭い視線を配達員へ向けた。
背後にいる役員たちは、何とも言えない引きつった表情を浮かべている。
ロビーの空気が一瞬でざわめきに変わった。
「前から藤原社長って冷たすぎると思ってたけど……『立たない』って噂、本当だったんだ」
「社長、あっちの方はダメだったのか……」
「おもちゃを箱買いするって、性欲がないの? それとも本当に使い物にならないの?」
和也は押し黙った。
――葵!
和也の全身から立ち上るどす黒い殺気に気づき、建が慌てて口を開く。
「す、すぐに追い返します」
そう言うなり、建は配達員を外へ押し出そうとした。
配達員は血の滲むように赤い顔で、困り果てたように建を見る。
「でも、受領サインだけはもらわないと……」
建は背筋が凍る思いだった。
「こっちで受け取ります。私がサインを」
伝票を奪い取り、素早く自分の名前を書き殴る。
配達員は箱を押し付けるように渡すと、逃げるように走り去った。あとに残されたのは、アダルトグッズの詰まった箱を抱え、周囲の好奇の目に晒されて立ち尽くす建ただ一人。
和也は氷点下の眼差しで建を一瞥すると、踵を返し、足早にエレベーターへと引き返していった。
