第8話
「うっ、うわぁぁん……烈、和也が私をいらないって」
雪菜は泣きじゃくりながら、烈の胸に飛び込んだ。
烈は一瞬体を強張らせたが、すぐに優しい声で問いかけた。
「どうした?」
雪菜は何も答えず、たださらに激しく泣き声を上げるだけだった。
烈の目が暗く沈む。彼女を抱き寄せたまま部屋に入り、足でドアを閉めた。
雪菜をソファに座らせると、烈は再び口を開いた。
「和也に何かされたのか?」
雪菜は弾かれたように首を振る。
うつむき加減で、掠れた声を絞り出した。
「ううん。和也は葵と結婚したんだから……私が馬鹿だったの。彼の心にはまだ私がいるなんて、思い上がってた」
「また葵か!」
烈は眉間を深くしわを寄せた。その名を聞いただけで、彼の目にはありありと嫌悪の色が浮かぶ。
彼は顔を上げ、真剣な眼差しで雪菜を慰めた。
「心配するな。俺が葵を消してやる」
雪菜の瞳が一瞬だけ輝きを放つ。
だが、すぐにまた暗く沈んだ。
「やっぱり駄目。もし和也に知られたら、絶対に怒られちゃう」
「お前は本当に優しすぎる」
烈は甘やかすような視線を向けた。
「心配いらない。俺が上手くやる」
そう言い残し、烈は立ち上がって大股で部屋を出て行った。
烈の背中を見送りながら、雪菜の唇が吊り上がり、陰湿な笑みが漏れる。
――葵、自分から身を引かないあなたが悪いのよ。私を恨まないでね。
翌日。
葵は朝起きると海辺を少し散歩した。別荘に戻っても梨乃の姿が見当たらず、ジョンに尋ねた。
「梨乃は?」
ジョンはきょとんとした。
「君と一緒に外出したんじゃなかったのか?」
「いいえ」
葵は即座に否定した。
ただならぬ気配を感じ取り、すぐにスマホを取り出して梨乃に電話をかける。
何度かけても、コール音が虚しく響くだけで誰も出ない。
何度目かの発信で、ようやく通話が繋がった。
「ダイビングエリアにいるわ。来なさい」
雪菜の声だった。
葵はスマホを握りしめ、低い声で警告する。
「雪菜、私たちの問題に無関係な人を巻き込むべきじゃないわ」
「無関係?」
雪菜の冷笑が漏れ聞こえた。
「つべこべ言わずに、今すぐ這ってきなさい。さもないと梨乃を殺すわよ」
「待ってなさい!」
葵は歯を食いしばって応じた。
ジョンが不安げに彼女を見つめる。
「あの女、どう見てもまともじゃない。行かない方が……」
「行かなきゃ」
彼女の口調は揺るぎなかった。
自分のせいで梨乃を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
「なら、俺も――」
「あなたは来ないで」
葵は彼の言葉を遮った。
「私のクルーザーを出してきて」
ジョンにそう指示すると、葵はダイビングエリアへと向かった。
縛り上げられた梨乃の姿を目にした瞬間、葵は抑えきれない怒りに駆られ、歩み寄るなり雪菜の頬を張り飛ばした。
パァン!
静まり返ったダイビングエリアに、その平手打ちの音は異様なほど大きく響き渡った。
「私たちのことに、どうして他人を巻き込むの?」
葵は彼女を鋭く睨みつける。その瞳から放たれる激しい怒気に、雪菜は思わず身を震わせた。
しかしすぐに頬を押さえ、凶悪な目つきで睨み返す。
「よくもぶったわね?」
葵は冷ややかに笑った。
「何? もう一発お見舞いしてほしいの?」
葵の容赦ない言葉に、雪菜の目はみるみる充血していく。
――今すぐこの女を殺してやりたい!
「葵、逃げて! こいつら、あんたを殺す気よ!」
梨乃が突然叫んだ。
「黙りなさい!」
雪菜は梨乃に向かって怒鳴りつけた。
憎悪に満ちた目で梨乃へと歩み寄る。
葵はすかさず彼女の腕を掴んだ。
「私と和也が離婚手続き中なのは知ってるはずよ。そんなに早く後釜に座りたいなら、彼にさっさと離婚届にサインするよう説得すればいいじゃない」
ふんっ!
雪菜は再び冷笑を浮かべる。
冷たい視線を葵に向けた。
「和也がどれだけあなたと別れたがってないか、自慢してるつもり?」
「……」
――この女、頭がおかしいんじゃないの?
葵は痛み出したこめかみを押さえ、必死に苛立ちを抑え込んだ。
「雪菜、私が和也との離婚に合意してるってことは、もう彼に何の未練もないってことよ。分かる?」
「分からないわね」
「……」
本当に話が通じない。
葵は梨乃に視線を移し、気遣うように尋ねた。
「どこか怪我はしてない?」
こんな状況で自分を気遣う葵に、梨乃は再び急かした。
「馬鹿言ってないで、早く逃げて! あいつら本気で殺す気よ!」
葵は聞こえないふりをして、まっすぐ梨乃の元へ向かった。
彼女の戒めを解こうとしたその瞬間、雪菜が突然声を張り上げた。
「今すぐ別の街へ行きなさい。さもないと、梨乃と一緒にここで死ぬことになるわよ」
雪菜の警告を聞いて、葵はふっと笑った。
その時、雪菜の視界の端に、足早にこちらへ向かってくる和也の姿が映った。彼女は突然、意味ありげな笑みを浮かべる。
声に出さず、唇だけを動かした。
――あんたの負けよ。
葵が状況を飲み込むより早く、雪菜は突然葵の腕を掴み、自分の体へ力任せに打ち付けた。
「葵、叩かないで! お願いだから」
――狂ってる!
葵は手を伸ばして雪菜を引き剥がそうとしたが、彼女は接着剤のようにぴったりと張り付いて離れない。
その光景は、和也の目には葵が一方的に雪菜を痛めつけているようにしか見えなかった。
「葵、雪菜から離れろ!」
和也の怒声が飛んでくる。
その声を聞いて、葵は無意識に振り返った。
和也? どうして彼がここに?
思考が追いつく前に、雪菜は葵の手をきつく握りしめ、大声で泣き喚き始めた。
「葵、私が和也を愛しすぎたのがいけなかったの。ごめんなさい、お願いだから、和也と別れて!」
なおもすがりついてくる彼女を、葵は嫌悪感のままに強く振り払った。
「きゃあっ!」
雪菜が唐突に悲鳴を上げる。
次の瞬間、葵は雪菜に道連れにされるようにして、冷たい海の中へと引きずり込まれた。
