第9話
氷のように冷たい海水が頭上を覆い尽くし、葵は思わず水を飲んでむせた。
必死にもがいて水面へ顔を出すと、ふくらはぎに鋭い痛みが走った。
先ほど海へ落ちた際、雪菜に力任せに水底へ押さえつけられ、岩礁に脚をぶつけてしまったのだ。塩分を含んだ海水が、容赦なく傷口に沁みる。
「和也、助けて、怖いよぉ……」
雪菜の泣きじゃくる声が響いた。
和也が海へ飛び込もうとしたその時、彼の視線が少し先の水面で凍りついた。
三つの鋭い灰色の背びれが水面を切り裂き、恐ろしいスピードでこちらへ迫ってくる。
陽光を反射するサメの背びれが、ぞっとするような冷たい光を放っていた。
「サメだ! サメが出たぞ!」
岸から誰かの悲鳴が上がった。
和也の心臓が大きく跳ねた。
彼の目に映ったのは、必死に立ち泳ぎをする葵の姿。そして、彼女の脚の傷口から、赤い血の筋が海中へゆっくりと広がっていく光景だった。
血の匂いがサメを引き寄せている!
「和也……」
雪菜は震える声で呼びかけ、和也が近づくやいなや、その腕にすがりついて離さない。
「私、怖い……」
和也の視線が、葵と雪菜の間で激しく揺れ動く。
葵はダイビングができる。彼女なら自力で逃げ切れるはずだ。
「こっちへ来い!」
結局、彼は歯を食いしばりながら雪菜の腰を抱き寄せ、岸へ向かって泳ぎ出した。
迷いなく遠ざかっていく二人の背中を見つめ、葵の胸に鋭い痛みが走った。
――やはり。生死の境にあっても、彼が私を選ぶことは決してないのだ。
その時、一匹のサメがすでに十メートルと離れていない距離まで迫っていた。
水面下に潜む、巨大な灰色の影まではっきりと見える。
恐怖で全身が硬直した。呼吸すら一瞬止まる。
「葵! 早く逃げて!」
岸から、梨乃の喉が裂けんばかりの叫び声が届いた。
その声に、葵はハッと我に返る。
ダメだ、こんな所で死ぬわけにはいかない!
葵は大きく息を吸い込み、勢いよく水中に潜った。
水中の視界は濁っていたが、サメが確実に迫ってきている気配を感じる。
必死に横方向へ泳ぐ。海水の刺激で、脚の傷から骨の髄まで響くような激痛が走る。
泳ぐスピードを上げれば上げるほど、肺の中の空気は急速に失われていく。
もう限界だ――そう思った瞬間、モーターの轟音が遠くから近づいてきた。
ジョンがクルーザーを操縦して間一髪で駆けつけ、船上のライフセーバーが長い棒でサメを追い払っている。
「手を伸ばして!」
ジョンが葵に向かって手を差し出した。
葵は最後の力を振り絞り、その手を掴んだ。
船に引き上げられると、甲板にへたり込み、激しく咳き込んだ。
「葵!」
クルーザーが岸に着くやいなや、梨乃が血相を変えて駆け寄ってきた。その声はまだ恐怖に震えている。
「もう、生きた心地がしなかったよ! なんでこんな所にサメがいるの?」
海面を遠ざかっていくサメの背びれを見つめながら、葵の瞳は冷たく沈んでいった。
この海域は安全なエリアのはずだ。サメの出現は、決して偶然ではない。
少し離れた場所で、雪菜が恨めしそうな目で葵を睨みつけている。
(あのクズ、なんて悪運が強いの。あれでも死なないなんて)
和也もクルーザーの上の葵を見て、密かに安堵の息を漏らした。
雪菜を支えていた腕を離そうとした瞬間、急にその腕を強く掴まれた。
雪菜が涙ぐんだ瞳で彼を見上げる。
「和也、苦しい……息が、できない……」
彼女は胸を押さえ、ひどく苦しそうな顔を作った。
和也は葵から視線を外し、再び雪菜を抱き上げて病院へと走り出した。
「今すぐ病院へ連れて行く。大丈夫だ、心配するな」
葵がそちらへ視線を向けた時、ちょうど彼が慌てて走り去る後ろ姿が見えた。
彼女は伏し目がちに、自嘲するような笑みをこぼした。
心の奥底の、一番隠された場所で――自分はまだ、和也にほんの少しでも期待していたというのか?
「葵!」
泣きそうな梨乃の声が、葵を現実に引き戻した。
「葵、怪我してるじゃない!」
梨乃の悲鳴に近い声を聞き、葵は血を流し続けている自分のふくらはぎを見下ろした。
ジョンが口を開く。
「どうやら、サメはその血の匂いを嗅ぎつけて来たみたいだね」
葵自身は脚の傷をさほど気にしていなかったが、傍らの梨乃は目を真っ赤にして怒り狂っていた。
「絶対にあの腹黒女の仕業だわ! まずは病院へ行こう。後であのクズ共の悪行を全部ネットに晒してやるんだから。結婚しておきながら大事にしないなんて、どいつもこいつもイカれてる。本当に吐き気がする!」
まくし立てる梨乃の言葉を聞きながら、葵の表情は淡々としていた。
「後で、どうしてここにサメが出たのか調べてくれない? とりあえず、今は病院へ行きましょう」
傷口が化膿でもしたら、結局苦しむのは自分なのだから。
病院に着くと、梨乃はジョンに葵の付き添いを頼み、自分は薬を受け取りに行った。
すぐに、梨乃が怒り心頭といった様子で薬袋を手に戻ってくる。
「本当に最悪。途中で、あのクズ二人に鉢合わせしちゃった」
怒り狂う梨乃を見て、葵は落ち着き払っていた。
「この島には病院がここしかないんだから、会ってもおかしくないでしょ?」
「おかしいわよ!」
梨乃は吐き捨てるように言う。
「顔を見ただけで気分が悪くなる。気持ち悪いったらありゃしない」
葵は気にも留めない様子で笑った。
「私が死んだかどうか、確かめたかったんじゃない? 私が死ねば、慰謝料も払わずに済むし、堂々と雪菜と一緒になれる。彼らにとっては万々歳でしょうね」
病室の外。
和也は唇を固く結び、眉間に深い皺を寄せていた。その顔色はひどく険しい。
葵もこの病院に運ばれたと聞き、様子を見に来たのだが、まさかあんな言葉を聞くことになるとは思ってもみなかった。
彼女の心の中では、俺はそんな風に思われていたのか?
和也の胸の内に、名状しがたい苛立ちがどす黒く渦巻き、思考をかき乱していく。
彼は乱暴にドアを押し開け、無表情のまま病室へ足を踏み入れた。
その物音に、室内の数人が一斉にドアの方へ視線を向ける。
和也の姿を認めるなり、梨乃は露骨に顔をしかめた。
「あんた、ここに何しに来たの?」
和也は梨乃を無視し、真っ直ぐに葵のベッドの前まで歩み寄る。
「雪菜は体が弱い。お前はダイビングができるから、てっきり……」
葵は自嘲気味に笑い、彼の言葉を遮った。
「私の前で白々しい言い訳はやめて。雪菜が梨乃を人質にして私を呼び出し、海へ突き落とした。それは紛れもない事実よ」
和也は彼女のふくらはぎの傷口に目を落とし、長い間沈黙した。
葵は手で傷口を隠し、冷え切った顔で言い放つ。
「藤原社長、他に用がないなら、出て行って」
「葵!」
和也は顔をしかめ、不機嫌さを露わにした。
梨乃がすかさず葵の前に立ち塞がり、腰に手を当てて和也を睨みつける。
「うちの葵に怒鳴らないでよ! あんたには血も涙もないの? 葵は雪菜に海へ突き落とされたのよ。あんたのやってることは、犯罪の片棒を担いでるのと同じだからね!」
それでも和也の視線は、葵の顔から離れなかった。
彼女が自分に一瞥もくれないのを見て、和也の苛立ちはさらに募る。
こんなはずじゃない。
以前の彼女なら、ほんの小さな擦り傷でも泣きついてきたはずだ。それなのに今は、こんなに酷い怪我をしているのに、文句一つ言わないのか?
「お前に死んでほしいなんて、思ったことはない」
和也が口を開いた。
その言葉が口をついて出た瞬間、彼自身も少し驚いた。
なぜ自分は、葵にこんなことを言っているのか。
葵が顔を上げた。その瞳には、色濃い嘲笑が浮かんでいる。
彼女は和也を一瞥すると、すぐに興味を失ったように視線を外した。
「雪菜はどうかしら? 彼女も私が生き延びることを望んでいたとでも?」
雪菜の名前を出した時の葵の冷ややかな態度に、和也は再び弁解を始める。
「雪菜は少し精神的に不安定なんだ。ただお前を脅かしたかっただけで、決して殺すつもりなんてなかった。そんな悪意に満ちた解釈をするな……」
「消えて!」
葵の瞳から、激しい憎悪がほとばしった。
彼女はドアを指さし、冷酷に言い放つ。
「出て行け」
「葵! 俺はちゃんと話し合おうとしてるんだぞ。ヒステリックに喚くのはやめろ!」
和也も負けじと声を荒らげた。
彼女のあの従順さは、すべて演技だったというのか?
和也は無意識に腕時計を擦りながら眉を吊り上げ、胸の内に渦巻く怒りを抑えきれなくなっていた。
「雪菜は……」
「和也!」
烈が血相を変えて駆け込んできた。
「雪菜のうつ病の発作が起きた! 今、お前に会いたいって泣き叫んでる。早く来てくれ!」
その言葉を聞いて、和也は無意識に葵の表情を窺った。
「……後でまた来る」
そう言い残し、彼は一度も振り返ることなく病室を出て行った。
