第10章

「……兄さん」

鳴瀬芽衣は鳴瀬庄司の姿を認めた途端、さっきまでの勢いが嘘みたいに萎んだ。

鳴瀬庄司は芽衣を一瞥すらせず、まっすぐ星川千奈の前へ。穏やかな眼差しで彼女を見下ろす。

首元の赤い痕に視線が触れた瞬間、瞳の奥に痛みが走った。

「千奈……大丈夫か」

星川千奈はその優しい眉と目を見上げ、理由もなく胸の奥がきゅっと締まった。

鳴瀬家で――祖母以外に、彼女に「体面」を残してくれるのは、この兄だけだ。千奈はどうにか口角を上げる。

「兄さん、平気です」

鳴瀬庄司は眉を寄せ、芽衣へ向き直った。

「芽衣。義姉さんに謝れ」

「なんで!」芽衣はむっとして言い返す。「だって、あいつが――」

「今日は家の席だ。好き勝手させるわけにいかない」

鳴瀬庄司の声は冷え切っていた。

「祖母に出てきてもらって、裁いてもらうか?」

「……っ」

祖母の名が出た途端、芽衣は露骨に黙り込む。唇を尖らせ、渋々ぼそりと吐き捨てた。

「……ごめんなさい。これでいいでしょ」

「ありがとうございます、兄さん……」

千奈はようやく息をついた。

鳴瀬庄司は小さくため息を落とす。

「颯真はどうした。こんな場でお前を一人にするなんて、あいつの不手際だ」

そのとき、入口の方がざわついた。

「颯真様がいらっしゃいました!」

「え……小林先生も?」

声の方へ振り向くと、宴会場の扉口に鳴瀬颯真が立っていた。黒のスーツに身を包んだ背筋の伸びた姿。その腕に、白いドレスの小林琴音を自然に抱えている。

二人が並んで歩き出した瞬間、視線は一斉に吸い寄せられた。

鳴瀬颯真の目が会場をなぞり、星川千奈が鳴瀬庄司の隣で微笑んでいるのを捉えた途端、空気がひやりと冷えた。

「颯真兄さん!」

芽衣の声が甲高く跳ねる。

「やっと来た! さっき義姉さん、ここで偉そうにしてたんだよ。自分の立場も分かってないくせに」

芽衣は千奈を横目で見て、にやりと笑う。

「星川千奈、颯真兄さんを奥さん面で押さえつけたって意味ないよ。颯真兄さん、琴音姉さん連れて来たんだから。あんたじゃなくてね」

その言葉が、頬を平手で打たれたみたいに痛かった。

客たちは何も言わない。けれど、面白がる視線がいくつも千奈に突き刺さる。

妻は一人で出席し、夫は高嶺の花を連れて現れる――そういう絵だ。

「芽衣、余計なこと言うな」

鳴瀬颯真は庄司と千奈を一度見て、眉間の皺をさらに深くした。

庄司の傍らに立つ千奈は華やかで、庄司は端正で穏やかで。並ぶだけで妙に絵になる。

それが、なぜか腹立たしい。

「琴音姉さん! 会いたかったぁ!」

芽衣が大げさに叫び、一直線に駆けていく。千奈の横をすれ違いざま、わざと肩をぶつけた。

「……っ」

不意を突かれ、千奈の身体がぐらりと傾く。

「危ない」

鳴瀬庄司がすぐに腰を支えた。

「大丈夫か?」

低く覗き込む声は本気で心配している。

「だ……大丈夫です」

千奈は立て直し、何事もなかったように庄司の手をそっと外した。

少し離れた場所で、鳴瀬颯真の顔色が一気に沈む。

踏み出しかけた瞬間、腕が引かれた。

「颯真」

小林琴音が袖口をつまみ、憂いを帯びた目で言う。

「芽衣が軽率だったの。怒らないで……私、千奈の様子を見てくるね」

琴音は千奈の前へ歩み寄り、柔らかく微笑む。

「千奈、大丈夫? さっきのは芽衣、わざとじゃないの。私に会えて嬉しすぎただけだから……責めないであげて」

あまりに自然な「いい人」の顔。

「小林さん、冗談がお上手ですね」

千奈は冷えた笑みを返した。

「ここは鳴瀬の家です。芽衣は身内。私が責めるわけないでしょう」

――外の人間は、あなたの方だ。

琴音の笑みが一瞬、ひくりと固まる。だがすぐに何もなかったように整えた。

「琴音姉さん、こんな人に丁寧にしなくていいって!」

芽衣が白目をむく。

「今日は家の席だよ? 顔色、死人みたいに真っ白でさ。見てるだけで縁起悪い」

「芽衣」

琴音は怒ったふりで芽衣の手の甲を軽く叩き、それから千奈へ向き直る。申し訳なさそうな顔。

「千奈、気にしないで。芽衣は昔からああなの。口が先に出るだけで、悪気はないのよ」

悪気がない――その言葉で、千奈の胃の奥がむかついた。

鳴瀬颯真が近づき、低い声で言う。

「芽衣はまだ子どもだ。考えずに言うこともある。義姉さんなんだから、いちいち目くじら立てるな」

羞辱され、突き飛ばされても、庇うどころか「気にするな」と言う。

これが、夫。

千奈は口元をわずかに歪めた。

「颯真の言うとおりね。芽衣は無邪気で可愛いもの。私が責めるはずないでしょう」

鳴瀬颯真は眉をひそめ、周囲のひそひそ声に目を走らせて苛立ちを滲ませた。

「……もういい。こんなところで立ってるな。祖母が待ってる」

一歩前へ出て、当然のように千奈へ手を差し伸べる。

「行くぞ」

小林琴音の瞳に一瞬だけ悔しさが浮かんだが、すぐに消えた。

鳴瀬颯真の手は大きく、指の節がくっきりしている。

さっきまで琴音に絡め取られていたその手が、千奈にはひどく汚く見えた。千奈は身体をわずかに引き、差し出された手を避ける。

鳴瀬颯真の手が宙で止まる。

驚きの色が走った。

結婚して三年、星川千奈はいつも従順だった。手を取られて拒んだことなど一度もない。外で冷たくされても、むしろ自分から腕に縋りついて、機嫌を取ってきたのに。

それが、今日は――。

「自分で行くわ」

千奈は淡々と告げ、踵を返して階段の方へ向かった。

鳴瀬颯真はその場に固まり、顔が一瞬で黒くなる。

「颯真兄さん……」

芽衣が何か言いかけた。

「黙れ」

鳴瀬颯真は氷みたいな目で芽衣を見下ろす。その寒気に、芽衣は喉を詰まらせて口を閉じた。

鳴瀬颯真は大きく息を吸い込み、胸の奥の苛立ちを押し殺すと、長い足で千奈の後を追った。

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