第11章
二階、鳴瀬おばあさんの寝室は、階下の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
星川千奈が扉を押し開けた瞬間、ベッド脇には義母の中島瑠美が立っていて、苛立った顔で腕時計を睨んでいる。
「……お母さま」
千奈が小さく呼ぶと、瑠美は振り向き、彼女を頭の先から爪先まで値踏みするように眺めた。目に浮かぶのは露骨な嫌悪。
「遅いじゃない。何してたの?」
そこへ、鳴瀬颯真も入ってくる。
「母さん」
息子の声を聞いた途端、瑠美の表情はあからさまに柔らいだ。いくつか気遣いの言葉をかけてから、ふたたび千奈へと視線を戻す。
「来たなら、ここでおばあさまの面倒を見て。私は下でお客さまを迎えなきゃいけないから」
そう言い捨てると、瑠美は千奈の横をすり抜けて出ていった。扉が閉まり、部屋に残ったのは三人だけ。
ベッドにもたれかかる鳴瀬おばあさんは白髪こそ増えていたが、目の光はまだしっかりしている。
「千奈が来たの?」
千奈の姿を見つけた途端、おばあさんの顔がぱっと明るくなった。手招きする。
「ほら、早く。おばあちゃんのところへおいで」
凍りついていた千奈の胸に、ほんのわずか熱が灯る。
彼女は足早にベッドへ寄り、皺だらけの乾いた手を包み込んだ。
「おばあさま、今日は具合いかがですか? 足、まだ痛みます?」
「痛くない、痛くないよ」
おばあさんは眉をひそめ、千奈の顔色を覗き込む。
「……なんでそんなに真っ青なんだい。あの子がまたいじめたのかい?」
そう言って、入口付近に立つ颯真をきっと睨む。
颯真は鼻先を指でこすり、苦笑しながら近づいた。
「おばあちゃん、俺がいじめるわけないだろ」
「人を労わることを覚えたらどうだい」
おばあさんはふん、と鼻を鳴らす。
「年がら年中、冷たい顔して。まるで何億も借りがあるみたいじゃないか」
千奈は引きつった笑みを作り、ベッド縁に腰を下ろすと、慣れた手つきでおばあさんの肩を揉みはじめた。
「おばあさま、颯真さまは私によくしてくださってます。心配しないでください。おばあさまが元気でいてくださるのが、いちばん嬉しいんです」
颯真は脇に立ち、千奈の横顔を見下ろした。
俯いたまま、真剣に肩をほぐす。指の運びは滑らかで、きっと何度もやってきたのだと分かる。
――なのに。
さっき階下で、自分の手を避けたあの動きが頭に引っかかり、胸の奥がざらついた。
「会社の方はどうなんだい?」
おばあさんは孫嫁の手を堪能しながら、話題を颯真へ投げる。
「順調です。南区の案件も、もう動き出しています」
颯真はきちんとした声で答えた。
「それならいい」
おばあさんは千奈の手の甲をぽんぽんと叩き、言葉を改める。
「お金なんて、稼ぎ出したらきりがないよ。結婚して三年だろ。そろそろ子どものことを考えなきゃ」
千奈の指が、ぴたりと止まった。
「子ども」は、この三年でいちばん触れたくない話題だった。
颯真の表情もすっと淡くなる。
「おばあちゃん、今は会社の拡大期だ。忙しくて、まだそこまで手が回らない」
「忙しい忙しいって!」
おばあさんは腹立ちまぎれにベッドを叩いた。
「兄さんが研究で忙しいのは分かるよ。でもあんたは商売だろ。子どもを作る時間すらないってのかい? 千奈はもう二十五だよ。これ以上引き延ばしたら高齢出産になっちまう!」
「まだ早い。数年待っても問題ない」
颯真は譲らず、そして千奈へ視線を刺すように向けた。
「それに、千奈も今は仕事が軌道に乗りはじめたところだ。子どもに縛られるのは嫌だろ? ……そうだよな」
――まただ。
祖母の前では孝行な孫を演じながら、最後の泥をかぶる役だけは、いつも千奈に押しつける。
千奈は睫毛を伏せ、目の奥の揺れを隠した。
「……はい、おばあさま。私も、今はまだ欲しくありません」
おばあさんは二人を見比べ、やがて深く息をついた。
「まったく……あんたたち、ほんとに相性が悪いね」
おばあさんの部屋を出ると、颯真が先に廊下を歩いた。
千奈は足の痛みを噛み殺しながら後ろを追う。踏み出すたび傷が擦れて、じわりと冷や汗が滲んだ。
「星川千奈」
颯真が突然立ち止まり、振り返る。口元に薄い嘲り。
「さっきは、いい芝居だったな。てっきり泣きついて告げ口でもするかと思った。『子どもが欲しい』って言って俺を縛る気か、とかな」
千奈は顔を上げる。
「颯真さま、冗談がお上手ですね。取引なら、ルールは守ります」
颯真は鼻で笑った。
「その通りだといい。勝手にうろつくな、余計なこともするな。面倒を起こしたら許さない」
そう言い捨て、彼は宴会場の反対側へ歩き去った。
そこでは小林琴音が人に囲まれ、まるで姫君みたいにちやほやされている。
千奈はその場に立ち尽くし、未練ひとつ見せない背中を見送った。視界がにじむまで。
宴会場は人で溢れ、グラスが触れ合い、作り物の笑顔が飛び交う。話題は株、そして新作のブランド品。
息が詰まる。
千奈はひとり、隅のデザートコーナーへ向かった。人影は少ない。ケーキを一つ取り、スプーンでひと匙すくって口へ運ぶ。
甘ったるさが舌の上でほどけても、胸の苦さは消えなかった。
「義姉さん、ずいぶん食欲あるんだね」
振り返らなくても分かる。
鳴瀬芽衣が赤ワインのグラスを手に近づいてきた。千奈の手元を見下ろし、軽蔑の視線を落とす。
「颯真兄さんは琴音姉さんのところに行ったのに、まだケーキ食べてる余裕があるんだ」
芽衣はくすりと笑う。
「まあ、あんたみたいな世間知らず、普段はこんな上等な甘いもの食べられないもんね。たくさん食べときなよ。……どうせ、こんな暮らしも長くないんだから」
千奈はスプーンを置き、芽衣をまっすぐ見た。
「鳴瀬芽衣。ずっと私を挑発してるけど……私が、あなたに何もできないと思ってる?」
芽衣は一瞬だけ目を瞬かせ、それから大笑いした。
「星川千奈、ここは鳴瀬家だよ? あんたに私をどうこうできるわけないでしょ。颯真兄さんはあんたのことなんて愛してないし、すぐ野良犬みたいに追い出されるんだから」
芽衣はテーブルのデザートを指差す。
「その時は一生、苦いものだけ食べて生きればいいよ!」
千奈は芽衣を見据えたまま、すっと距離を詰めた。
芽衣が肩を引く。
「……な、なに? 何する気?」
