第5章
「もういい!」
鳴瀬颯真が苛立たしげに遮った。
「ここは会社だ。いい歳して床で転がるな」
確かめる気すらない。鳴瀬颯真の中では、小林琴音は清く善良で、星川千奈は腹の読めない女だ。
「今すぐ消えろ。持ってきたものは捨てる。次に会社で見かけたら、つまみ出させる」
星川千奈は俯いた。
乱れた髪が顔を覆い、表情は読み取れない。ただ、小刻みに震える肩が、必死に押し殺している感情だけを洩らしていた。
「まだいる気か?」
鳴瀬颯真の苛立ちは増すばかりだ。
あのときだって彼女は手段を選ばず自分のベッドに上がり、琴音を追い払った。なのに今さら、哀れみを買うような顔をする。
「颯真、そんな言い方……」
小林琴音がそっと鳴瀬颯真の袖を引いた。目には、かすかな愉悦が潜む。
「星川さん、怪我してるし……私、起こしてあげようか?」
そう言って近づこうとした、その瞬間。
「放っておけ!」
鳴瀬颯真が琴音の腕を掴んで引き止める。
「縋りつかれたら面倒だ。お前まで巻き込まれるぞ」
星川千奈は泣きもしないし喚きもしない。膝の痛みと眩暈に耐え、壁づたいに少しずつ立ち上がった。
そして、真正面から琴音を見る。
「小林さん。海外に長くいたせいで、頭まで鈍った?」
琴音は目を見開いた。いつもおどおどしていた星川千奈が、こんな言い方をするなんて想像もしていなかったのだろう。顔色が変わる。
「星川さん……どういう意味……」
「そのままの意味よ」
星川千奈は冷たく笑った。
「ここは鳴瀬グループ。J市でも指折りのセキュリティ。ビル全体のシステムだけで億単位の金がかかってる。出入りはカード認証が基本。私が本当に鳴瀬颯真を監視できるなら、わざわざここであなたたちの顔色をうかがって屈辱を味わう必要なんてないでしょ?」
畳みかける反問に、鳴瀬颯真が一瞬言葉を失った。
たしかに。彼の周囲には常に警護がついている。星川千奈が監視などできるはずがない。
その揺れを見て、琴音の胸がひやりとする。
「でも、星川さんは鳴瀬家の若奥様だし……警備も止めづらいのかも」
星川千奈は、その作り物みたいな顔を見て、嘲りを滲ませた。
「仮に私が見てたとして、それが何?」
視線を逸らさず言い切る。
「私は法律上の妻よ。夫を気にして、何が悪いの?」
「私は、日陰でこそこそ他人の男を狙うような不倫相手じゃない。だから隠れる理由もない。堂々としてればいいだけ」
その言葉で、琴音の顔がさっと青ざめた。
「星川さん……い、今のって……私のことを不倫相手だって……?」
琴音は鳴瀬颯真を見上げ、涙を大粒に落とす。
「颯真……私、帰ってこない方がよかったよね。星川さんが嫌がるのも分かる。けど、どうしてこんな辱めを……私と颯真は清清白白で、ただの友だちなのに……」
「友だち?」
星川千奈が鼻で笑った。
もう、耐えない。積もりに積もった痛みが、そのまま言葉になって噴き出す。
「小林琴音。ここには外野はいない。誰に芝居してるの?」
「鳴瀬颯真が結婚してるの、知ってるんでしょ。なのに平気で抱きついて、泣きついて……恥って言葉、置いてきたの?」
「口じゃ友だち。やってることは既婚の男に縋りつく女。そういうのを不倫相手って言うのよ。違うなら、何?」
「表彰でもしてほしい? よくできましたって賞状でも出せばいい?」
「黙れ!」
鳴瀬颯真の怒気が一気に噴き上がった。星川千奈がこんな鋭い言葉を吐くなんて、見たことがない。
いつも俯いて、声を荒げることすらできない女が――目の前で、彼がかつて最も大切にしていた女を侮辱した。
鳴瀬颯真は手を上げ、勢いよく振り下ろす。
「パァン!」
乾いた音が廊下に弾けた。
星川千奈の顔が横に弾かれ、ふらついて二歩、退く。片側が瞬く間に痺れ、次いで熱い痛みがじわりと広がった。
星川千奈は、ゆっくり顔を戻した。
さっきまで光のあった瞳には、茫然だけが残っている。
鳴瀬颯真の掌が、微かに震えた。掌に残る痺れが、どれほどの力で叩いたのかを告げている。
腫れ上がっていく頬を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まった。
――俺は……手を上げた?
「……千奈」
思わず声が漏れ、一歩出かけた、そのとき。
「きゃっ……!」
琴音の甲高い声が彼の動きを止めた。
「颯真! 女の人を叩くなんて……!」
そう言いながら琴音は鳴瀬颯真の腕に縋りつき、前へ行かせない。星川千奈の惨めな姿を見て、内心では甘い快感が広がっていく。
「星川さん、大丈夫……? でも、あなたも悪いよ。颯真が怒ってるの分かってたのに、どうしてわざわざ刺激するようなこと言うの……」
その一言で、鳴瀬颯真に芽生えかけた罪悪感は、すっと消えた。
そうだ。星川千奈が悪い。口を慎まず、琴音を侮辱したのは彼女だ。
鳴瀬颯真は表情を固め直す。
「星川千奈、口を慎め。琴音は著名な画家で、俺の客だ。お前みたいなのが勝手に貶めていい相手じゃない」
星川千奈は壁にもたれて、ふと笑いそうになった。
自分の婚姻の尊厳を守ろうとすることが、取るに足らないことなのか。
この男の中で、自分は琴音の髪一本にも及ばない。
「鳴瀬颯真」
星川千奈は、惨めに口角を上げた。
「よく打ったわ」
鳴瀬颯真は眉を寄せ、冷たく言いかける。
「星川千奈、そんな顔しても俺は――」
「演技?」
星川千奈が静かに遮る。声は妙に落ち着いていた。
「鳴瀬社長が小林さんをそんなに大事にして、そんなに庇いたいなら……祝ってあげる」
一拍置いて、息を吐く。
「末永く、お幸せに」
「星川千奈……死にたいのか!」
鳴瀬颯真の胸が激しく上下し、再び手を上げた。ぶん、と風を切る音。この一撃は、ただでは済まない。
だが星川千奈は避けない。
腫れていない方の頬を差し出し、まっすぐ鳴瀬颯真を見返した。
「打ちなさいよ、鳴瀬颯真。今日、根性あるなら私を殺しなさい」
「死にさえしなければ、私は見下す。あれは不倫相手よ。不倫相手は、不倫相手」
