第6章

鳴瀬颯真の手が、宙でぴたりと止まった。怒りで全身がわなわなと震える。

目の前の――骨の髄まで反抗心でできたみたいな女を見ていると、胸の奥が理由もなくざわつく。苛立ちに混じって、説明のつかない不安まで滲んだ。

変わったのだ。

昔の星川千奈は、傷つけば隠れて泣くだけだった。こちらが少しでも優しい顔を見せれば、すぐに縋りついてきた。

それが今は――彼女の視線は、仇を見るみたいに冷たい。

「俺にできねえとでも思ってんのか」

鳴瀬颯真が歯噛みし、言葉を噛み砕くように吐き出した。

「もちろん、できますよ」

星川千奈が薄く笑う。嘲りを帯びた、刃みたいな笑み。

「颯真様が“できない”ことなんてあります? 妻を傷つけて、不倫相手は丁重に扱う。あなたの得意技でしょう」

鳴瀬颯真の目がかっと赤く染まる。だが、彼女の腫れ上がった頬を見た瞬間、振り上げた手がどうしても落ちない。

「……お前……」

舌打ち混じりに手を引っ込め、乱暴にネクタイを緩めた。

「話にならない」

それから息を整え、命令するように言う。

「琴音に謝れ」

星川千奈の目が大きく見開かれた。

「……今、なんて?」

「謝れ」

鳴瀬颯真の声は低く、冷えきっていた。

「さっき琴音を侮辱した。俺たちのことも勝手に言い立てた。今すぐ謝れ」

「鳴瀬颯真、順番が違うでしょう」

星川千奈が声を張り上げる。

「先に突っかかってきたのは、あの人よ。殴ったのはあなた。なのに私が謝るの?」

鳴瀬颯真は鼻で笑った。

「謝らない? 別にいい」

淡々と告げる。

「星川グループ、最近の資金繰りが相当きついらしいな。鳴瀬グループがここで手を引いたら、あんたの父親の会社、何日もつ?」

星川千奈が信じられない、という顔で彼を見た。

「鳴瀬颯真……最低」

「やり方より結果だ」

鳴瀬颯真は表情ひとつ変えない。

「俺にそれができる力があることは、お前が一番知ってるだろ。星川家のあのハリボテなんて、指先ひとつで潰せる」

星川千奈は下唇を噛みしめる。歯が食い込み、血の味がした。

星川家――それは、母が命みたいに守ってきたものだ。

母が亡くなってから、彼女はあの家で“よそ者”になった。父は鳴瀬家に取り入る道具としてしか見ず、継母も継弟も、彼女を邪魔者扱いした。

それでも会社だけは、母が残した唯一のもの。自分の手で壊すわけにはいかない。

鳴瀬颯真は、そこを正確に握ってくる。

「……分かった」

星川千奈は目を閉じる。再び開いたとき、瞳はもう死んだみたいに静かだった。

「謝る」

振り向き、小林琴音へ向き直る。

小林琴音は、上品な微笑みを浮かべて立っていた。だが、その目の奥には得意げな光がある。

「……すみません、小林さん」

星川千奈は腰を折った。

「私の言葉が過ぎました。……あなたたちを、誤解していました」

「星川さん、そんな……」

小林琴音は、千奈が完全に頭を下げ切ってから、ようやく殊勝な顔で近づき、扶け起こそうとする。

「颯真が私に優しくしてくれるのを見たら、色々考えちゃうのも無理ないですよ。責めたりしません」

聞こえは立派だ。けれど内容は、星川千奈が嫉妬深い妻だと“確定”させる釘。

星川千奈は勢いよく身体を起こし、差し伸べられた手を横に避けた。

そのまま振り返りもせず、歩き出す。

一秒でも早く離れたかった。あの男女から、息ができる場所へ。

「待て」

鳴瀬颯真が星川千奈の手首を掴んだ。

千奈は無理やり足を止める。虚ろな目で振り返りもせず、淡々と言った。

「鳴瀬社長、次は何ですか? 土下座して叩頭でもしろって?」

鳴瀬颯真は眉を寄せ、彼女の腫れた頬を見て、嫌悪を滲ませる。

「そのツラで外に出る気か。世間に『俺が家で女に手を上げてます』って宣伝したいのか?」

「事実でしょう」

星川千奈が即座に返す。

「黙れ」

鳴瀬颯真が苛立って遮った。

「送ってやる。帰って処置しろ」

「帰るのは家よ」

千奈は掴まれた手を必死に振りほどこうとする。

「私の家に帰る!」

「星川家に戻って、継母に笑われたいのか?」

鳴瀬颯真が冷笑し、手の力を強めた。

「今夜、兄が帰国する。家で歓迎会だ。全員集まる。妻が欠席してどうする」

兄――鳴瀬庄司。金縁眼鏡をかけ、笑うと穏やかな男。

冷えきった鳴瀬家で、鳴瀬おばあさん以外に、彼女へまともに温かさと敬意をくれた数少ない人。

けれど――。

「兄に会えって……?」

星川千奈の声が震える。

「鳴瀬颯真、お願い。せめて私の面子くらい残して」

「面子があるなら、もっとマシに振る舞え」

鳴瀬颯真の胸に苛立ちが走る。

「だから傷を処置しろって言ってる。いい加減にしろ。俺の我慢にも限度がある」

言い終えるや否や、彼は星川千奈の意思など無視して引きずるように歩き、エレベーターへ向かった。

「颯真……」

小林琴音が二人の背を見つめ、目に嫉妬を一瞬だけ滲ませる。すぐに作り笑いに塗り替え、軽い足取りで追いかけた。

「私も着替えてから戻りたいの。ちょうど同じ方向だし、乗せて?」

鳴瀬颯真は足を止めず、淡く返事をする。

「……ああ」

地下の駐車場。

鳴瀬颯真は星川千奈の手首を放し、黒いマイバッハへ真っすぐ向かった。運転席のドアを開ける。

それと同時に、小林琴音が当然のように助手席へ回り込み、乗り込もうとする。

手慣れた動き。まるでそこが最初から自分の席だと言わんばかりに。

星川千奈は車の後ろでそれを見つめ、口元だけで笑った。

「小林さん、海外が長すぎて、最低限の礼儀まで置いてきたの?」

小林琴音の手がドアの上で止まる。無垢な顔を作った。

「星川さん、今度は何?」

「助手席は、奥さんか恋人の席よ」

星川千奈の視線が鋭く刺さる。

「既婚男性の車だと分かっててそこに座るって……不倫相手って肩書きを、わざわざ確定させたいの?」

小林琴音は運転席に座った鳴瀬颯真を見た。次の瞬間、目尻が赤く染まる。

「颯真……私、ただ少し酔いやすいだけ。後ろだと吐きそうで……」

か細く言い、いかにも傷ついたふうに続ける。

「星川さんが嫌なら、私……タクシーで帰る」

そう言いながら、ドアを閉める素振りだけ。身体は動かない。

鳴瀬颯真はハンドルを握ったまま、苛立たしげに窓を下ろした。

「座席ひとつで何やってんだ。いちいち噛みつくな!」

怒鳴り声が駐車場に響く。

「琴音は身体が弱い。酔いやすいんだ。お前は乗れ、後ろだ!」

星川千奈はその場で立ち尽くした。体温が、足元から抜けていく。

酔いやすい?

大学の頃、小林琴音はジェットコースターが大好きだったじゃない。

星川千奈は一歩も動かない。

「鳴瀬颯真。そんなに繊細なら、二人でごゆっくり」

声は冷たく乾いていた。

「私はタクシーで帰る」

「星川千奈!」

鳴瀬颯真が苛立ってハンドルを叩く。クラクションが耳を裂くように鳴った。

「最後に言う。乗れ」

彼は顔を向け、陰鬱な目で彼女を射抜く。

「こんな場所で俺に手を出させるな。歓迎会まであと二時間だ。時間を無駄にする気はない」

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