第8章
鳴瀬颯真は、彼女の顔に浮かぶ露骨な嫌悪を目にした瞬間、動きを止めた。
「鳴瀬颯真。どうしても乗せるっていうなら、私は後ろに乗る」星川千奈は一歩も引かない。「それが嫌なら、ここで私の首を絞めればいい」
豪雨のなか、二人は睨み合ったまま固まっていた。鳴瀬颯真の視線が、彼女の裸足へ落ちる。雨にさらされて白くふやけ、細かな傷がびっしり――それを見た途端、胸の奥がふっと緩んだ。
「バンッ!」
鳴瀬颯真は助手席のドアを乱暴に閉めると、後部座席のドアを引き開けた。
「……さっさと乗れ」
星川千奈はほっと息を吐き、素早く後部座席へ滑り込む。運転席から最も遠い隅に身を縮めた。
鳴瀬颯真が運転席へ乗り込み、エンジンをかける。車内は暖房が効いていて、じわじわと寒さが引いていった。
バックミラー越しに見えたのは、小さく丸まって震える女。
膝を抱えたまま、髪から雫を落としている。顔色は紙みたいに青白いのに、片頬だけが赤く腫れて目立っていた。
――無理やり連れ戻された野良猫みたいだ。
鳴瀬颯真は苛立たしげにネクタイを引き、コンソールから乾いたタオルを取り出して後ろへ放った。
「拭け」冷たい声。「風邪でもひかれたら迷惑だ。こっちにうつすな、縁起でもない」
星川千奈はタオルを掴んで握りしめたが、動かない。
「聞こえたか?」
バックミラー越しに睨みつける。
「星川千奈。最後通告だ。今夜の歓迎会は大事なんだよ。騒ぐにも限度があるだろ」
車は再び走り出し、さっきまでよりもずっと滑らかに速度を上げていく。
鳴瀬颯真は運転しながら、何度もミラーへ視線を投げた。
まだ震えているのが見えて、眉が寄る。手を伸ばし、エアコンの温度をさらに二度上げた。
「……本当に手のかかる」
黒いマイバッハが、屋敷の門前でキィッと急停車する。鳴瀬颯真は執事が傘を持ってくるのも待たずにドアを押し開け、後部座席へ回り込んだ。
「降りろ」
星川千奈はずぶ濡れだった。薄い布が肌に張りつき、腰の細さを隠しもしない。濡れた髪が首筋にまとわりつく。
その光景が昨夜の熱を呼び起こし、鳴瀬颯真の喉仏が無意識に上下した。
嫌悪している。けれど認めざるを得ない。この身体は、どうしようもなく彼の神経を撫でる。
鳴瀬颯真はためらいを捨てた。腰を折り、長い腕で彼女を抱え上げる。抵抗など意に介さず、そのまま横抱きにした。
軽い。濡れた布越しに伝わる体温が胸元をくすぐり、心臓のあたりがむず痒くなる。
「離して……自分で、歩ける……」星川千奈の声はか細い。だが手だけは反射的に彼のスーツを掴んでいた。
「黙れ」
鳴瀬颯真は冷えた顔のまま屋敷へ早足で向かう。腕には勝手に力が入り、抱く強さだけが増していく。
髪からふわりと香る淡い匂いが、妙に神経を逆撫でした。
ホールは明るく照らされていた。石川が驚いた顔で立ち尽くしている。
潔癖で知られる颯真様が、同じくずぶ濡れの若奥様を抱いている。
「さ、颯真様……若奥様……こ、これはいったい……」
石川の声が上ずる。
「熱い茶を淹れろ」鳴瀬颯真は足を止めない。「それと救急箱。上に持ってこい」
「は、はいっ! すぐに!」
石川は颯真様の顔色に怯え、慌てて厨房へ駆けていった。
鳴瀬颯真は星川千奈を抱えたまま二階へ上がり、主寝室のドアを足で蹴り開け、そのまま浴室へ入る。
「ジャアァ――」
片手で蛇口をひねり、湯を全開にする。湯気が一気に立ちのぼり、鏡を白く曇らせた。
鳴瀬颯真は星川千奈を洗面台に座らせ、濡れたワンピースの留め具に指をかける。指先が氷みたいな肌に触れた瞬間、眉間がきつく歪んだ。
「自分で……やる……」星川千奈が彼の手を押さえる。歯がカチカチと鳴っていた。
「自分で?」
鳴瀬颯真は顎を掴み、顔を上げさせる。
「星川千奈。立ってもいられないくせに、どうやるんだ。浴槽で溺れでもして、星川家に最後の金でも落としてやるつもりか?」
星川千奈の瞳がぎゅっと縮む。押さえていた指が力なく解けた。
鳴瀬颯真は手早く、濡れて肌に張りついた布を剥いでいく。湯気の向こうに、整った線が輪郭を浮かべる。張りのある胸、くびれた腹、丸みのある――。
喉仏がまた動いた。彼は舌打ちしそうになりながら彼女を抱え上げ、半分ほど湯を張った浴槽へ沈めた。
ぬくもりが冷え切った身体を包み、星川千奈はびくりと震える。ふやけた傷に湯が触れ、ちくりとした痛みが全身に走った。
そのとき、石川が扉口に茶と救急箱を置いた。中へは入らず、置くだけでそっと去っていく。
鳴瀬颯真は救急箱を取り、浴槽のそばへ戻った。
湯の中で白く浮かぶ曲線を視界がなぞり、胸の奥に燥が立つ。
今夜の予定さえなければ、今ここで躾けてやりたい。自分を怒らせたらどうなるか、骨の髄まで分からせるのに。
苛立ちを隠さず、鳴瀬颯真は彼女の傷だらけの足を引き寄せた。湯に浸かったせいで、余計に痛々しい。
綿棒に消毒液を含ませ、傷を一つずつ拭っていく。
「っ……!」星川千奈が痛みに足を引っ込める。
「逃げるな」口調は意地悪く、それでも手つきだけは少しだけ軽くなった。「その足、捨てたいのか」
浴室は静かだった。湯の流れる音と、交じり合う呼吸だけ。
近距離にある鳴瀬颯真の整った横顔。湯気が二人の息を絡め取り、空気は妙に艶っぽく、熱を帯びていく。
星川千奈の意識が、ふっと遠のきかけた。
鳴瀬颯真が手当てを終え、立ち上がろうとした、その瞬間。
濡れた腕が、突然彼の首へ回された。
鳴瀬颯真の身体が硬直する。見下ろし、低く問う。
「……まだ足りないのか」
星川千奈は離さない。むしろ力を込めて彼を引き寄せた。
距離が一気に詰まり、鼻先が触れそうになる。彼女の息が頬を撫でる。
「鳴瀬颯真。私たち、結婚して三年だよ」
「それで?」
鳴瀬颯真は浴槽の縁に手をつき、瞳を暗く沈めた。
「この三年、私はあなたの言うことを全部聞いた。ベッドの上でも、あなたの好きなように合わせた。鳴瀬家でも、頭を下げて……」
星川千奈は彼の目だけを見つめ、逃げない。
「聞きたいのは、一つだけ……」
息を飲む。全身の力をかき集めるみたいに、言葉を絞り出した。
「たった一瞬でもいい。私のこと……愛したこと、ある?」
