第1章
「男なんてみんな目で食う生き物よ。この格好でベッドに横になってみな? 我慢できるわけないって!」
日向雫は姿見の前に立ったまま、親友の言葉を思い出して頬がかっと熱くなる。
身にまとっているのは、シャンパン色のシルクのシースルードレス。いつもの清楚な装いを脱ぎ捨て、透ける肌の輪郭がかえって艶めかしい。
あの酔いに任せた、狂った夜から――きっかり一か月。
あの夜、鷹司蓮矢はいつもの冷たさを全部脱ぎ捨て、優しさが痛いほどの声で彼女の名を呼んだ。
「雫……頼む……助けて」
そこから先は、もう歯止めが利かなかった。
初めては痛かった。けれど、その痛みさえ受け入れられるほど、彼が欲しかった。
それでも――夜が明ける前に、日向雫は逃げた。
目が覚めた彼に「気持ち悪い」と思われるのが怖かったから。
ところが、鷹司蓮矢はあれ以来、雫への態度が妙に違った。
コーヒーは砂糖抜きだと覚えている。
雫が夜更けまで絵を描いていると、使用人に温かい燕の巣を持たせる。
古傷のせいで指がじくじく疼くと、わざわざ薬局へ行って軟膏を買ってくる。
そして一昨日の夕食の席で、彼はふいに言った。
「三日後に慈善パーティーがある。準備しておけ。連れていく」
五年。鷹司蓮矢が初めて、雫を正式な場へ連れ出すと言った。
日向雫は胸が浮き立った。報われたのだ、と。これまでの献身が、やっと彼を動かしたのだ、と。
今夜はチャンス。
契約みたいなこの結婚を、本物にする。
ドアが押し開けられた。
鷹司蓮矢が立っていた。仕立てのいいダークグレーのスーツが、広い肩と長い脚を際立たせる。灯りを受けた端正な顔立ちは一層冴え、視線が雫の露わな寝間着を掠めた瞬間、歩みが一拍止まった。
「まだ寝てないのか」
部屋に入ってくる瞳は深く、雫には読み取れない複雑さを湛えている。
雫は顔を上げ、恐る恐る彼の腕に触れた。
「蓮矢、話がしたいの」
言い終える前に、蓮矢はさりげなく手を抜いた。表情は冷えたまま。
「疲れてる。用件はまた今度だ」
雫は言葉を失う。
「わたし……」
何か言おうとした雫を、蓮矢は氷みたいな声音で遮った。
「着替えろ。お前には似合わない」
それだけ言い残し、彼は雫を追い越して浴室へ消えた。
日向雫は呆然と立ち尽くす。全身が冷え、言いようのない羞恥が喉元を締めつけた。
シャワーを終えた蓮矢は寝室へ戻らず、書斎へ向かった。
雫は夜更けまで待ったが、彼は一度も寝室に戻ってこない。
諦めきれず、上着を羽織って書斎へ向かった。廊下は暗い。書斎の扉の隙間からだけ、かすかな光が漏れている。
そっと近づき、ノックしようと手を上げた瞬間――中から、抑えた唸り声が聞こえた。
掠れた声。滲む欲。雫が一度も聞いたことのない音色。
「静佳……」
日向雫の全身が硬直し、息が止まる。
静佳。鷹司蓮矢の初恋の名前。
信じられなかった。性に淡いと思っていた夫が、ひとりで欲を煽りながら、別の女の名を求めるように呼んでいる。
「静佳……」
くぐもった吐息が重なり、荒い呼吸が乱れる。やがて――終わった。
雫は一歩退き、踵が壁際の飾り棚に当たった。コツ、と乾いた音。
書斎が沈黙し、間もなくドアが乱暴に開く。
鷹司蓮矢が立っていた。パジャマの襟元は開き、顔は紅潮し、胸がまだ上下している。
「ここで何をしてる」
声は氷のように冷たい。
雫は口を開いたが、言葉が出ない。
「わたし……」
ようやく絞り出した声は震えていた。
「水が飲みたくて」
蓮矢は眉を寄せ、身を引く。
「行け」
雫は機械みたいにキッチンへ向かい、冷蔵庫から瓶のミネラルウォーターを取り出した。ガラスが冷え切っていて、指先が痺れる。
蓋を回そうとしても力が入らない。少し力を込めただけで、針で貫かれるように痛んだ。
「貸せ」
蓮矢が近づき、雫の手から瓶を取る。軽く捻って蓋を開け、差し出した。
雫は受け取り、一口だけ喉に流し込む。
「……ありがとう」
カウンターに瓶を置き、背を向けた。
その背に、彼の声が落ちる。
「明日、上田先生を呼ぶ。手を診せろ」
また、手。
五年間、彼が示す「気遣い」はいつだってそれだけだった。
雫は振り返らない。
「いらない。明日、自分で病院へ行く」
そう言い切って寝室へ戻り、ドアを閉める。
その瞬間、やっと自分の指を見つめる勇気が湧いた。
震える十指。
指先は青白く、長いリハビリのせいで関節が少し歪んでいる。
――この手は、かつて師匠が息を呑む絵を描けた手だった。
キャンバスに世界を塗り込められた手だった。
そして五年前の地震で――死神の手から彼を奪い返した手でもある。
余震が続き、誰もがやめろと言った。雫は聞かなかった。
爪が剥がれ、血と肉がぐちゃぐちゃになっても、指の関節で瓦礫を掻いた。
痛みで気を失い、目が覚めればまた掻いた。二日二晩。
血まみれの鷹司蓮矢を瓦礫の下から引きずり出したとき、彼は目を開いて最初に言った。
「……お前の手……」
それきり気を失った。
目を覚ました彼がまずしたのは、医者に雫の手を診せることだった。
そのあと――鷹司蓮矢は雫を娶った。
式はない。指輪もない。
鷹司蓮矢は言った。
「日向雫、俺はお前に命を借りた。この結婚で、俺は一生お前の面倒を見る。だが、それ以上はやれない」
雫は言った。
「……うん」
彼女は彼を愛していた。
大学で初めて見た瞬間から。
彼が没落して、ゼロから這い上がり、冷たく鋭い男になっても――それでも愛した。
だから責任だけの結婚を受け入れた。いつか、彼が自分の良さに気づくと信じていた。
けれど五年かけて知った。
人の心には、石より硬く、どれだけ抱きしめても温まらないものがある。
翌朝、目を覚ますと隣は空だった。
前田がノックして入ってきて、湯気の立つ粥を運んでくる。
「若様が、昨夜奥様の具合が悪そうだったからって。胃が冷えるといけないから、温かいものをって」
海鮮の匂いが鼻を刺した瞬間、雫は堪えきれず、うっとえづいた。
前田の顔色が変わる。
「奥様……もしかして、ご懐妊では」
