第2章
あの酔った夜のことが、ふいに脳裏をよぎる。生理も数日遅れている。――まさか、本当に妊娠してしまったの?
日向雫の顔色がさっと青ざめた。
「胃の調子が悪いだけ……病院に行ってくる」
前田さんが心配そうにたずねる。
「若様には、お知らせになりましたか?」
「言わないで」
前田さんは口を開きかけて、それでも結局うなずいた。
「かしこまりました」
――
病院へ駆け込むと、結果はあっけないほど早かった。
予想どおり、妊娠。
医師は言いにくそうに視線を落とし、今の体の状態では妊娠を続ける負担が大きいから、よく考えるようにと告げた。
けれど雫の耳には入らない。
平らなお腹にそっと手を当てる。中に小さな命がいる。鷹司蓮矢との子どもが――その事実だけで、言葉にならない喜びがこみ上げてきた。
だが、その喜びは長くは続かなかった。
昨夜、書斎で彼が低い声で「初恋の名」を呼んでいた光景が、鋭く差し込んでくる。
胸の熱が一気に冷め、代わりに不安と恐怖が広がった。
彼は……この子を望むのだろうか。
診察室を出て、迷って迷って、雫は結局メッセージを送った。
【今日、病院で再検査なんだけど。昼、時間ある? 一緒にご飯食べたい】
送っても、返事はない。
十分待って返ってきたのは、たった一言。
【忙しい】
雫は自嘲気味に笑い、スマホをバッグへ滑り込ませた。
ちょうど目の前のエレベーターの扉が閉まりかける。慌てて駆け寄った、その瞬間――誰かに乱暴に押し退けられた。
「悪い、どけ」
冷たいのに、聞き覚えのある声。
足を取られ、雫は「どさっ」と床に尻もちをついた。
膝に、針で貫かれるような痛みが走る。
必死に顔を上げ――全身が凍りついた。
目の前に立っていたのは、二人。
鷹司蓮矢。もう一人は、雨宮静佳。
距離が近い。
蓮矢の手が、静佳の腰のあたりに添えられていた。
雫を見た途端、蓮矢の顔色が明らかに変わる。
「どうしてここにいる」
雫の視線は、静佳のわずかに膨らんだ腹へ落ちた。
心臓が跳ね、喉が震える。
「……忙しいって言ったじゃない」
蓮矢は眉をひそめた。
「日向雫、先に帰れ。あとで話す」
雫は動けない。
膝は痛い。けれど、それより胸の奥のほうがもっと痛い。
「大丈夫か」
蓮矢は静佳から手を離し、半歩進んで雫を支えようとする。
雫は反射的に避け、自分で床を押して立ち上がった。
「平気」
静佳も近づき、整った心配顔を作る。
「本当に平気? 診てもらったほうが……」
雫は首を振り、蓮矢を見上げた。
「どうしてここにいるの」
蓮矢は一拍置いて答える。
「雨宮静佳の検査に付き添いだ」
「……何の検査?」
数秒、空気が止まった。
静佳が顔を上げ、柔らかく微笑む。
「普通の妊婦健診よ。蓮矢が今日はちょうど時間があるって、付き添ってくれたの」
雫はバッグの中で、検査票を握り締めた。指先が白くなるほどに。
蓮矢の眉が、ほんのわずかに動く。けれど彼は雫を見ない。
静佳に言う。
「先に車で待て。外は風が強い」
その労わりの温度が、雫の目の奥を酸っぱくした。
静佳は雫を一度見て、笑みを深める。
「うん。早く来てね」
彼女が遠ざかったあと、蓮矢はようやく雫へ視線を戻した。
「手は、どうなんだ」
雫は息を吸い込み、声を整える。
「回復は悪くないって。でも、リハビリは続けないといけない」
「来週、上田先生を家に――」
「いらない」雫は遮った。
蓮矢は言葉を止め、血が滲む膝へ目を落とす。
「悪かった。君だとは思わなかった」
雫は笑いもせず、ただ見つめ返す。
「じゃあ、誰だと思ったの。『どけ』って押し退けてもいい、ただの他人?」
蓮矢の声が少し強くなる。
「日向雫、くだらないことを言うな」
雫は皮肉に口元を吊り上げた。
「じゃあ私はどうすればいいの。あなたが別の女の妊婦健診に付き添ってるのを見て、笑って祝えばいい?」
蓮矢の唇がわずかに動く。だが結局、何も言わない。
いつもそうだ。冷たくて、静かで、沈黙で全部を終わらせる。
雫は長い沈黙の末、掠れた声で問うた。
「鷹司蓮矢……もし私が妊娠したら、あなたはどうするの」
蓮矢は黙った。
答えなど返ってこない――そう思った、そのとき。
「日向雫。雨宮静佳と君は、事情が違う」
それだけ。
軽いひと言が、雫の胸の底に残っていた最後の期待を、粉々に砕いた。
雫は小さくうなずき、何も言わず背を向けた。
――そう。違う。
雨宮静佳は、彼が愛する女。心の中の、汚れない高嶺の花。
だから彼女の子は「愛の結晶」で、待ち望まれる存在。
自分はただの余計者。重荷。
病院の外へ出ると、冷たい風が頬を打った。
タクシーを止めようとしても、手が震えて上がらない。
次の瞬間、見慣れた社用車が目の前に滑り込むように停まった。
窓が下り、アシスタントの上田直樹が顔を出す。
「奥様。鷹司社長から、ご自宅までお送りするようにと」
雫は淡く首を振る。
「結構です。自分で帰れます」
「社長のご指示です。必ず安全にお送りしろと」
上田の態度は固い。
雫も困らせたくなくて、黙って車に乗り込んだ。
上田がバックミラー越しに彼女をうかがう。
「奥様、今日のことは……あまりお気になさらず。社長、実は奥様のこと、けっこう気にかけておられます」
雫は笑った。
気にかける――生活費をきっちり渡し、最高の医者を手配して、手だけを診せようとする。
そのくせ、別の女のために自分を床へ突き飛ばす。
車内に沈黙が落ちる。
家が近づいたころ、上田が小さく言った。
「奥様……社長は、表現が下手なだけです。この数年、奥様以外、ほんとうに誰も――」
雫の動きが止まる。
「今は雨宮静佳がいる。しかも、あの人の子を妊娠してる」
上田は唇を結んだ。
「……奥様が思っているようなことでは」
寝室へ戻った雫は膝を抱え、顔を埋めた。
堪えていたものが、やっと溢れる。涙がぽたぽたと落ちた。
どれほど泣いたのか。
スマホがぶるっと震えた。
見知らぬ番号から届いた画像メッセージ。
画面の中で、鷹司蓮矢と雨宮静佳がベビー用品店に立っている。蓮矢の手には小さなロンパース。静佳は寄り添い、幸せそうに笑っていた。
その下に一行。
【蓮矢は、男の子でも女の子でもどっちも好きだって】
差出人の名前はない。だが、誰かは分かる。
雫は長くそれを見つめ、削除を押した。
すぐにまた着信。新田朱音だった。
「雫!」明るい声が弾む。「どう? 昨夜、どうだった?」
雫の声は擦れていた。
「朱音……私、妊娠した」
三秒の沈黙。
次いで、甲高い叫び。
「マジで!? 鷹司蓮矢は知ってるの? 反応どうだった? 嬉しくておかしくなってるんじゃないの!?」
雫は笑った。
笑ったはずなのに、涙がまた落ちる。
「……彼、別の女の妊婦健診に付き添ってた。朱音……私、すごく馬鹿だよね」
言葉が止まらない。胸の奥がひりつく。
「十年好きで、五年嫁いで、最後に気づいた。彼の中で私は、知らない他人より価値がない。今日、病院で……雨宮静佳のために私を押し退けたとき、瞬きもしなかった」
電話の向こうで、朱音の声にも泣きが混じった。
「雫……そんな……鷹司蓮矢にも、何か事情があるのかも」
