第4章
「……あの子ね」
雨宮静佳が言葉を切った瞬間、日向雫の心臓がひゅっと吊り上がった。
息を殺し、ひんやりした壁に指先を添えて身体を支える。耳を澄ませた。まるで判決を待つみたいに。
「あなたたちも知ってるでしょ。蓮矢は筋の通らないことが嫌いだし、恩がある相手を粗末にはしないわ」
「雫の手はね、世界でいちばん腕のいい整形外科医を見つけて、手術まで手配してる。あの手が治ったら――恩返しはそれで終わり」
「私の知ってる蓮矢なら……お金を渡して、雫を海外に出すと思う。情が残って毎日まとわりつかれたら、面倒でしょ?」
まとわりつく――。
その言葉が、細い針になって、心のいちばん柔らかい場所へびっしり刺さった。
日向雫は唇を噛みしめた。雨宮静佳の連れが「いいなあ」「よかったね」と羨望と祝福を弾ませるのが耳に入る。壁紙を掴む指に力がこもり、苦さと痛みが四肢から臓腑へとじわじわ広がっていく。
鷹司蓮矢は――ずっと、私のことをそういうふうに見ていたんだ。
ふいに、雫はひとつの光景を思い出す。
結婚したばかりの頃。胸の中が好きだという気持ちでいっぱいで、真っ先に思ったのは、彼に三度の食事を作ってあげたい、だった。
手はもう駄目になっていた。筆は握れない。フライ返しさえ上手く扱えない。
それでも必死で、彼の好きな料理をどうにか作って会社まで届けたのに――彼は一瞥もしなかった。
淡々と、ただひと言。
「日向雫。こういうことは前田さんに任せろ。二度とするな」
そのときは、身体を気遣ってくれたのだと勝手に思い込み、嬉しくなってさえいた。
けれど今、雨宮静佳の一言が、その夢を紙みたいに破った。
彼は私と関わりたくなかっただけだ。
だから余計なことをするなと――そう言っただけ。
最近、やけに治療のことに熱心だったのも、早く私という重荷を処分したかったから。心のいちばん大事な人を迎えるために。
鼻の奥がつんと痛む。傷跡が目立ち、醜く歪んだ自分の手を見つめると、視界が滲んだ。
深く息を吸って、かろうじて気持ちを整える。
かつて誇りだったのに、いまは見る影もないこの手で、雫は首元のネックレスを外した。迷いなく、ゴミ箱へ放る。
軽すぎて、音すらしない。
――私みたいに、取るに足らない。
鷹司蓮矢がほんの少しでも私の身体を気にしてくれていれば、手術ができる状態じゃないことくらい、分かるはずなのに。
雫は、稀な病にかかっていた。治療は厄介で、医師は言った。残された時間は、長くて二年かもしれない、と。
ぶるり――
スマホが震え、思考を無理やり引き戻す。
鷹司蓮矢からのメッセージは、いつものように短い。
【始まる】
オークションのことだ。
雫は反射的に、化粧を直したところですぐ戻る、などと打ちかける。だが途中で、そんな説明は要らない気がして、全部消した。
そして、これまた珍しく、短い一言だけ返す。
「了解」
画面を消し、顔を上げた瞬間――雨宮静佳と視線が遠くでぶつかった。
話は終わったらしい。彼女たちは壁沿いに曲がってきて、雫と鉢合わせる。
「鷹司奥さま……え、どうしてここに?」
相手の女が目をまん丸にし、雫の背後――廊下の突き当たりを見た。次いで雫の顔色を見て、すぐ悟ったのだろう。さっきの会話を、雫が一言残らず聞いていたことを。
短い沈黙。
その目には、陰口を聞かれた気まずさがある。けれど、それ以上に――露骨な蔑み。
恩に縋って得を取ろうとする女。身の程知らず。
そう言いたげな視線。
雨宮静佳は小さく顎を上げ、雫の白い首筋を一瞥すると、口元だけを持ち上げた。
「日向雫。あなた、鷹司奥さんとして滅多に表に出ないし、オシャレも得意じゃないのは分かるけど……さすがに地味すぎない? ちゃんとしたアクセサリー、ひとつも持ってないの?」
「蓮矢が忙しすぎるのよね。プレゼントする暇もないんだもの。明日会社に行ったら、あなた用に何か買ってあげたらって勧めておくわ」
あまりにも自然な口調。鷹司蓮矢の名を呼ぶときの距離の近さ。
それが逆に、鷹司奥さんである自分を、どれだけ滑稽に見せるか――雫の胸を抉った。
恥ずかしくてたまらない。
記念日の夜、すべてを目の当たりにしたときの惨めさがぶり返す。息が詰まり、力が抜けそうになる。それでも、最後の体面だけは守りたかった。
「オークションが始まりますので。先に戻ります」
震えを必死に押し殺した声。
表情を見なくても分かる。焼けつくような視線が、見下ろす者の余裕と嘲笑を混ぜて、背中に貼りついている。
雫は足を速め、会場へ向かった。
スマホが二度、短く震える。返信しようとした、そのとき――正面から聞き慣れた声。
「日向雫」
顔を上げた瞬間、足元が滑った。身体が制御できず、前へ投げ出される。
雫は反射で下腹部を庇った。頭の中に浮かんだのは、ただひとつ。
――最悪。恥ずかしすぎる。
しかも、鷹司蓮矢の目の前で。
「危ない!」
予想していた痛みは来なかった。鷹司蓮矢が間に合い、雫の身体を支える。
だが、雫の手が彼の胸にぶつかった瞬間、ずきん、と骨に突き刺さるような痛みが走り、冷や汗が噴き出した。
ようやく立ち直ると、鷹司蓮矢はすっと距離を取る。眉を寄せ、雫の手を凝視した。
「手は大丈夫か」
雫は唇の端を引いた。
「大丈夫です」
――やっぱり。気にするのは、手だけ。
「蓮矢」
背後から雨宮静佳の声。振り返ると、彼女は優雅で軽やかな歩みで近づき、当然のように鷹司蓮矢の横に立った。
「ごめんね。友達に会って話が弾んじゃって、時間を忘れてた」
「中で待っててくれたらよかったのに。席、どこか覚えてるから」
鷹司蓮矢は軽く頷く。
「先に入れ」
雨宮静佳の笑みが一瞬、口元で固まった。けれど雫を横目で確認し、すぐ笑顔を作り直す。
「うん、じゃあ先に行ってるね」
くるりと目を動かし、付け足すように言う。
「それと、会社の件。ありがとう」
会社――。
雫の脳裏に、さっきの会話がよぎる。
「雨宮静佳の言ってた会社って、どういう意味?」
雫が問うと、鷹司蓮矢はわずかに眉を寄せた。聞かれるのが不本意そうなのに、答える。
「雨宮静佳は、うちの会社に入った」
雫は言葉を失った。
目の前に堂々と置くつもりなんだ。
「会社と社員は相互に選ぶものだ。普通だろ」
珍しく、彼は一言だけ説明を足した。
「それと」
鷹司蓮矢が小さな冊子を取り出し、雫へ差し出す。
「今夜の出品リストだ。君は、きっと気に入る。落として君にやる。……病院に付き添えなかった埋め合わせだ」
雫はそれを一目見て、全身の血が一気に駆け上がった。声が出ない。
「こ……これ……!」
「君の先生の作品が、今夜のオークションに出る。好きか」
雫は勢いよく頷いた。
先生の絵は、生前から手に入らないほど高価だった。
さっきまでの悔しさがすっと引いていく。鷹司蓮矢が雫をここへ連れてきた意味が、ようやく分かった。胸がいっぱいになり、熱くなる。
「蓮矢、そんな……お金が……」
「君が喜ぶならそれでいい」
鷹司蓮矢の手が、雫の薄い肩に添えられる。
「行くぞ。中へ」
雫の予想通り、先生の絵が紹介された途端、札が次々に上がった。
値が上がるたび、雫は指先をぎゅっと掌に押し込む。
欲しい。どうしても、先生の絵を手元に置きたい。
でも、鷹司蓮矢に無理をさせたくない。
何度か競り合った末、鷹司蓮矢は不意に、上田直樹へ視線を投げた。
上田直樹は意図を汲み、立ち上がって札を上げる。声は張りがあり、会場に響いた。
「青天井で」
ざわ、と広がったどよめきが、すぐにすうっと消える。誰もが息を潜めた。
雫はその場で固まった。喉元まで上がっていた心が、すとんと落ちる。鼻の奥がつんとして、目の縁が熱くなった。
隣にいる、背筋の伸びた男を見上げる。
彼は相変わらず淡々としている。些細なことをしただけ、と言わんばかりに。
けれど会場を一瞬でねじ伏せるその余裕は、比べる者のいない財力と地位の裏付けだ。
言葉が詰まって、最後に出たのは震える感謝だけ。
「……ありがとう」
鷹司蓮矢は横目で雫を見る。そこに波はない。淡々と返す。
「小さなことだ」
係の者が絵を運んでくる。雫は背筋を正し、受け取ろうと身を乗り出した。
そのとき右側から、甘ったるい女の声。
「蓮矢。この絵、すごく素敵。私、気に入っちゃった。ねえ、私にくれない?」
