第6章

「……この声……!」

日向雫は、ぴたりと動きを止めた。

反射的に顔を上げる。信じられない、という色がその瞳いっぱいに広がり、いつの間にか自分のすぐ傍に立っていた男を、呆然と見つめた。

――坂本時佐。

日向雫の先輩だ。

五年前、先生が亡くなってから、雫はこの世界ときっぱり縁を切った。人も出来事も、もう自分とは関係のないものになったはずなのに。

長い空白を挟んで再会すると、胸の奥が不意にひやりとする。まるで別の人生の出来事を眺めているみたいに、遠い。

坂本時佐は仕立てのいいスーツに身を包み、以前よりも輪郭がシャープで、背筋がすっと伸びている。眉目は涼やかで、目を引くほど整っていた。

雫は見つめたまま、反応を忘れる。

坂本時佐がゆっくり近づき、軽く身を屈めると、温もりの残る紙ナプキンをそっと彼女の冷えた手のひらへ置いた。

「先生の筆がどれだけすごくても、絵を一目見ただけでここまで泣くことはないだろ。ほら、拭け」

先輩は、昔と変わらず気遣いが細やかで、声も柔らかい。

日向雫は掠れた声で礼を言い、紙ナプキンを握りしめて頬を拭った。

紙に指を添えるたび、蜈蚣みたいに盛り上がった傷痕に触れる。取ろうとしても手が小刻みに震え、どうしても止まらない。

坂本時佐はそれに気づいた。けれど視線は一瞬だけで、すぐに逸らす。

そして身体を向け直し、目の前の『碧竹』を真っ直ぐ見据えた。

「館長は先生の親友でね。半年ごとに無償で展示の場を用意してくれて、俺を招いて解説もさせてくれる。先生の芸術を、もっと多くの人に知ってもらうために」

穏やかに笑う。

「……できれば誰かに、学んで受け継いでもらえたら、なおいいんだけど」

雫は黙って聞いていた。胸の内が、言葉にできないほど酸っぱく疼く。

先生は間違いなく本物の芸術家だった。そして先生は、この人生の半分を創作に、もう半分を――雫と坂本時佐を育てることに注いだ。

雫はこの五年、この界隈の流れをほとんど知らない。けれど坂本時佐の今の佇まいを見れば分かる。きっと、遠くまで行ったのだ。

日向雫は指を小さく丸めた。

「先生の衣鉢を継げるのは……たぶん、先輩だけ」

「違うよ」

坂本時佐が振り返る。

「雫。先生が言ってただろ。才能も努力も、君のほうが俺よりずっと上だって」

雫の喉の奥が、きゅっと詰まる。俯いて、首を小さく振った。

「……私は先生を裏切った」

五年前。先生は雫に、大学院への進学も博士課程への道も整えてくれた。身近で腰を据えて絵を学べ、と。最高の環境を、まるで道のように敷き詰めてくれた。雫という新星が、ゆっくりと昇り、光を放つことを願って。

でも、その頃には――雫の手は、もう筆を持ち上げられなかった。

断るしかなかった。

その夜、先生は土砂降りの雨の中、雫に会いに来た。鷹司蓮矢を助けたせいで、雫が両手を駄目にしたと知ると、先生は痛むような目で雫を見つめ、長い沈黙のあと、ようやく言葉を絞り出した。

「蓮矢は悪い子じゃないし、腕もある。先生は、あなたが幸せでいてくれたらそれでいい。絵の道は……いったん、止めなさい」

雫は唇を噛みしめ、滲んでくる涙を必死に押し戻した。

「君は裏切ってなんかいない」

坂本時佐の声が、頭上からふわりと落ちてくる。落ち着いていて、胸の奥まで届くような安定感があった。

雫は、はっとして、ゆっくり顔を上げた。

照明が坂本時佐の頭上から差し、顔を薄い光の膜で包む。輪郭は少しだけ滲み、柔らかく見えた。

彼は穏やかな目で雫を見つめ、静かに口を開く。

「先生は誰より君のことを分かってた。会えたら必ず伝えてくれって、俺に言づけた言葉がある」

「先生は、君に『やめろ』なんて言ってない。『しばらく止めなさい』と言っただけだ。君の性格なら、絶対に絵を捨てないって分かってた。だからこの道は、今も君のものなんだ」

雫の鼻の奥がつんとした。先生の慈しむような顔が、まぶたの裏に蘇る。

雫は自分の手を見下ろし、小さく首を振った。声が、どうしても掠れる。

「でも……私の手じゃ、もう描けない」

「試したのか?」

坂本時佐が問い返す。

雫は固まって、ぼんやりと首を横に振った。

医者にははっきり言われた。回復は難しい、と。絵描きにとって、それは天が落ちる宣告だ。

恐怖に縛られて、筆に触れることさえできなかった。心のどこかで、もう二度と描けないのだと決めつけていた。

「ちょっと待ってて」

坂本時佐は踵を返して去り、ほどなく戻ってきた。手には、小ぶりで上品な木箱。それから紙とペン。

彼はガラス台に紙を広げ、ペンをそっと雫の手へ渡す。声は淡々としているのに、芯があった。

「やってみないと、できるかどうかなんて分からない」

雫の視線が、ペン先に釘付けになる。指の関節に鈍い痛みが走るのに、胸の奥で沈みきっていた熱が、ざわざわと暴れ出す。

――持て。

その声に押されるように、気づけば雫の指は勝手に筆を握っていた。

ペン先が落ち、紙の上に一本の線が引かれる。粗く、歪んで、頼りない線。

古傷は癒えていない。加えて、五年ぶりの筆。基礎も感覚もすっかり鈍り、線はよじれ、形にならない。

背後から、ぱち、ぱち、と。まばらだけれど真剣な拍手が聞こえた。

「いいじゃないか」

雫は自嘲気味に口元を引いた。

「先輩……慰めはやめて」

坂本時佐は唇の端を少し持ち上げた。淡い琥珀色の瞳に、今の雫がはっきり映っている。

「でも君は、筆を取り戻した。それだけで十分だろ」

その一言が、ひび割れた乾いた土に落ちる春の雨みたいに、雫の荒れた心をそっと濡らした。

坂本時佐は両手で木箱を捧げ持つようにして、雫の前へ差し出す。

指先が木箱に触れた瞬間、側面に何か挟まっているのが分かった。

封書だ。

「……これは」

声が掠れる。胸の奥では、もう予感が形になりかけていた。

「先生が君に残したものだ。いつでもこの道へ戻れるっていう――君の支えになるはずのもの」

坂本時佐はまっすぐ雫を見た。

「手の傷がどれほど深いのか、俺には分からない。でも少なくとも、君はまだ握れる」

「ゆっくりでいい。一筆ずつ描けばいい。必ず、もう一度立てる」

言い方を少しだけ柔らげ、冗談めかして続ける。

「先生の衣鉢は、君が広げていかなきゃな」

そのとき、坂本時佐のスマホが鳴った。

画面を一瞥し、彼は申し訳なさそうに雫へ視線を戻す。

「このあと仕事があって、あまり長くは付き合えない。日向雫、連絡先……交換しよう」

「うん」

連絡先を交換し終えると、雫は木箱と手紙を抱え、静かに配車を呼んで帰宅した。

車内で、雫は震える指で先生の手紙を開く。

そこにはこう記されていた。その絵は、当時ふたりで一緒に制作した未完成の作品なのだと。先生は長い時間をかけて周囲に布石を打ち、世間には『すでに収集家の手に渡った幻の絵』として探させ続けていた。だが実際には、一度も完成していない――。

先生の思いと期待が、胸へ重く、そして温かく落ちてくる。

日向雫は目を潤ませ、心の中で誓った。

――必ず、自分の手でこの絵を完成させる。

二年あれば、一枚の絵を仕上げるには十分だ。

家に着いて、まだ水を一口も飲めていないのに、スマホが鳴った。

知らない番号だ。

坂本時佐かと思い、雫は通話を取る。

「もしもし――」

「鷹司さんが酔っぱらって、義姉さんの名前ずっと呼んでるんです。悪いんですけど、迎えに来て連れて帰ってもらえませんか!」

鷹司蓮矢の友人の声だった。

雫は遅れて気づく。そういえば今夜、彼はまだ帰っていない。

……当然だ。雨宮静佳がいるのに、早く帰る理由なんてない。

「上田さんに頼んで。あの人が対応するから」

「いやいや義姉さん、上田さんだって当てにならないときあるでしょ!」

「連絡つかないんですよ。どうせ義姉さん家にいるだけで暇なんだし。それに、義姉さんだって鷹司さんの前でいいとこ見せたいって、ずっと思ってるじゃないですか。チャンスですよ」

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