第7章
電話口のツーツーという忙しない音が、唐突に耳を刺した。向こうは締めの一言すら惜しむように、ぶつりと切ったのだ。
日向雫はスマホを握りしめ、顔色をどん底まで沈めた。
鷹司蓮矢の友人たちは、誰もが金も地位も持っている。彼に付き従うのが当たり前で、心の底では彼の「手の使えない、取り柄のない」妻である雫を見下していた。
敵意はいつだって露骨だった。
お前は彼にふさわしくない。
最初のころ、雫も腹を立てた。目を赤くして蓮矢に訴えたこともある。けれど彼は決まって眉間を押さえ、ため息まじりに言うだけだった。
「みんなああいう言い方をするんだ。悪気はない。いちいち気にするな」
そう言い終えるや否や、背を向けて仕事へ戻る。
彼は忙しい。分刻みで動く人だ。雫の小さな屈辱なんて、彼の目には取るに足らない些事でしかない。見えないし、気を使うほどの価値もない。
繰り返されるうちに、雫は感情を飲み込む術だけを覚えた。
――要するに。
彼の友人がいる場には、なるべく顔を出さない。自分も傷つかず、彼も面倒にならないように。
「奥様、若様からのお電話でしたか?」
上田さんが燕の巣の器を運んでくる。
「今日は黒糖を少し入れてあります。若様のご指示で……奥様、今はお腹を冷やしちゃいけませんから。温まるものを、って」
その言葉が、胸の奥をこつんと軽く叩いた気がした。
鷹司蓮矢は、そういう人だ。
上田さんに滋養のあるものを作らせたり、雫が生理痛でうずくまっているとき、黙って湯たんぽを差し出したりする。
先生の言うとおり、本質的にはいい人なのだ。雫を愛していないことを除けば、ほとんど欠点が見当たらない。
――ただ、その「愛していない」が。
見えない溝となって、二人の間に横たわっている。
雫はこわばった眉間を揉んだ。
愛していないのなら、どうして結婚という形で互いを縛るのだろう。
彼女は最初から、どうしても彼に嫁ぎたいわけじゃなかったのに。
「酔ってるみたいだから、迎えに行く」雫は立ち上がり、感情の温度がない声で言った。
「え?」上田さんは器を持つ手を空中で止め、目を丸くする。「若様はいつも節度がありますのに。席でも深追いされませんし、酔い潰れるなんて……」
雫だって分かっている。
蓮矢は酒に強い。しかも腹の内を見せない人間で、商談の席で取り乱したことなど一度もない。
けれど――雨宮静佳だけは別だ。
前に彼が酔ったのだって、雨宮静佳のせいだったではないか。
雫は頭を振り、雑念を振り払うように息を整えると、上田さんにだけ言った。
「酔い覚ましを作っておいて。私、様子を見てくる」
コートを掴み、タクシーを拾う。向かったのは、彼らがいる高級レストランだった。
個室の扉は、ほんの少しだけ開いていた。そこから漏れる笑い声と酒の匂いが、隙間風みたいに雫の肌を刺す。
反射的に袖口をぐい、と引き下げた。指先で布を握り潰し、手の甲に押しつける。必死に、あの傷痕を隠すために。
準備が整って、深呼吸。胸に溜まった重い塊を押さえつけ、扉を押そうと手を上げた、その瞬間――。
「蓮矢さん、雨宮静佳が戻ってきたんだしさ。いつになったらあの廃人と離婚して、静佳と一緒になるの?」
弾んだ声が、扉越しに雫の鼓膜を撃ち抜いた。
間髪入れず、室内がどっと沸く。
「そうだよ! 朗報、待ってるからな!」
血の気が一瞬で凍りついた。呼吸が、鉄の手で喉元を握り潰されるみたいに詰まる。胸が苦しくて、足元までふらついた。
それでも――鷹司蓮矢の声は聞こえない。
扉に背を向けている彼の表情は見えない。けれど、向かい側にいる雨宮静佳の、隠しきれない照れと、口元の勝ち誇った笑みだけは、嫌というほど見えた。
雨宮静佳は口元に手を添え、甘ったるい声で言う。その指先は、わざとらしく下腹部をなぞった。頬を染め、羞じらう仕草まで添えて。
「もう、みんな適当なこと言わないで。飲みすぎよ。……本当に何か決まったら、そのとき連絡するから」
鷹司蓮矢をいちばん崇拝している渡辺夏央が、机を叩いて立ち上がった。言葉は容赦なく尖っている。
「誰だって知ってるだろ。蓮矢さんがどんだけ静佳のこと好きだったか。日向雫が横入りして、罪悪感で縛りつけなきゃ、今ごろ子どもだって走り回ってた!」
横入り。罪悪感で縛る。廃人――。
ひとつひとつが刃物だった。雫の心臓に、ぐさり、ぐさりと突き立つ。
怒りで全身が震え、視界が白く滲む。膝が抜け、肩が勢いよく扉にぶつかった。
ガンッ。
扉が押し開かれた瞬間、室内の笑いはぴたりと止まり――次の瞬間には、むき出しの蔑みの視線に変わって雫へ突き刺さった。
「しつこい女。どこまで付いてくるんだよ」
「ここがどんな場所か分かってんの? 入る資格ある?」
渡辺夏央はもともと苛立っていたのだろう。雫が全部を見てしまったと分かると、机を叩き、彼女を指さして怒鳴りつけた。
「来たか?」
「ちょうどいい。お前に聞きたいことがある」
さっきの電話の主は、こいつだ。
「恥ってもんがないのかよ! 場違いなのは百歩譲っても、わざわざ来て台無しにするとか!」
「当時お前が小細工してしがみつかなきゃ、蓮矢さんはとっくに雨宮静佳と一緒になってた! お前が鷹司奥さんの席に居座って目障りなんだよ!」
「足手まといの廃人が! 蓮矢さんの人生壊して、それでもまだ足りないのか!?」
凍りついた言葉の刃が、雫の胸を叩き割る。
罵声が雪崩みたいに押し寄せる。雫は扉口に立ち尽くし、晒し者にされた罪人のようだった。耳の奥がじんじんと鳴り、視界が何度も暗転する。
そこへ雨宮静佳が、絶妙のタイミングで前に出た。渡辺夏央の腕を軽く引き、優しげに見える声で――雫の傷に塩を擦り込む。
「渡辺夏央、そんな言い方しないで。雫も蓮矢さんのことが心配だったんだよ。ただ……急に来ちゃったのはよくなかったね。みんなが困るでしょう」
たったそれだけで、雫は「自分から恥をかきに来た」ことにされる。
そして鷹司蓮矢は、数歩先に立っていた。眉間に皺を寄せたまま、最初から最後まで、ただ見ているだけ。
庇う言葉ひとつない。目線ひとつよこさない。
妻に浴びせられる最悪の罵倒を、黙って許している。
雫は彼の冷たい横顔を見つめ、胸の奥の屈辱と絶望が限界までせり上がった。立っている力すら、ほどけていく。
彼と同じ温度で、雫は言った。
「鷹司蓮矢……あなたも、そう思ってるの?」
鷹司蓮矢は眉を寄せる。
「変なことを考えるな」
「あなたが本当に雨宮静佳と一緒になりたいなら、離婚してあげる。二人の邪魔はしない」
その一言で、場が凍りついた。
全員が目を見開く。信じられない、という顔。
いつも耐えて、黙って、鷹司家の若奥様の座にしがみつく女――そう見下していた雫が、自分から離婚を口にするなど、想像もしなかったのだ。
鷹司蓮矢の表情が、ようやく変わる。
「雫。意地を張るな。今すぐ帰れ」
空気が、凝固したみたいに重い。
隅にいた北野涼介が立ち上がり、ネクタイをゆるく引いた。
「くだらねえ。俺、先に帰るわ」
それが合図になった。次々と、不満と嘲りが溢れ出す。
「せっかくの集まり、台無しだよ。最悪」
「楽しかったのに、一気に白けた」
「解散でいいだろ。見てるだけでうざい」
誰も彼女を見ない。誰も「痛くないか」とは言わない。
いつの間にか外は土砂降りになっていた。窓を叩く雨粒が、ばちばちと暴力みたいに鳴る。
雨宮静佳が腹を押さえた。
「蓮矢……気持ち悪い……」
鷹司蓮矢は迷いなく雨宮静佳を庇うようにして外へ向かった。その声は、雫が知らないほど柔らかく、根気があった。
「雨がひどい。送る」
雫の横を通り過ぎるときだけ、声が沈む。
「あとで上田さんに迎えに来させる」
そう言って、彼は行ってしまった。
雫も、息が詰まる個室に留まれなかった。
夫が車のドアを閉めるのを、雫は目の前で見た。車はためらいもなく雨の幕へ滑り込み、彼女だけを――滂沱の雨の中へ、置き去りにする。
重傷を負ったあの手が、雨にさらされた。冷たい雨水が関節に染み込み、骨の芯まで刺す痛みが、心の底へと伸びていく。指が一本ずつ強張り、震えが止まらない。
雫は雨の中に立ち尽くし、全身ずぶ濡れで、みっともなく、息ができないほど絶望していた。
そのときだった。
黒い傘が、すっと――彼女の頭上に、安定した手つきで差し掛けられた。
