第2章
「西村ミサエ」
委員長の声が、東京国際アニメフェアの会場全体に響き渡る。
「西村ミサエさん、今年の声優アワード、受賞おめでとうございます」
私はまだその場に立ち尽くしていた。委員長が二度目に私の名前を呼んだとき、ようやく茫然自失の状態から我に返る。隣にいた佐藤理沙が肘で軽く私をつつき、それでやっと自分が受賞者なのだと悟った。
授賞式のステージへと続く道は、やけに長く感じられた。まるで雲の上を歩いているかのように、足元がおぼつかない。
冷たいトロフィーが掌に触れた瞬間、私はようやく、自分が、本当に声優アワードを受賞したのだと実感した。
万雷のスポットライトを浴びながら、私は無意識のうちに来賓席の最前列に目を向けていた。そこには荒木祈と江戸未来が並んで座っている。江戸未来は落選したショックで顔を白くさせ、無理に笑顔を作っていた。一方の荒木祈は、俯いてスマートフォンを眺めており、私の受賞スピーチにはまるで興味がないようだった。
「まず初めに、この貴重な機会を与えてくださった『暗夜の光』制作陣の皆様に感謝いたします……」
私は用意してきたスピーチを読み上げ始めた。感謝のリストには声優事務所、プロデューサー、監督、そしてファンの方々まで含まれていたが、ただ一人、荒木祈の名前だけは挙げなかった。
スピーチの最後に、司会者が笑顔で付け加えた。
「西村さんが初期に手掛けられたアニメ主題歌の【祈り】は、愛する方のお名前から取ったと伺っておりますが、本日、その幸運な方が誰なのか、明かしていただけませんか?」
私の声は、喉の奥で凍りついたようだった。客席では、荒木祈がはっと顔を上げ、その目には信じられないといった表情が浮かんでいる。
私は慌てた表情の江戸未来を一瞥し、微笑みながら首を横に振った。
「もう、過去のことですから」
席に戻ると、掌がじっとりと熱く、感情が激しく揺さぶられていた。
公の場では涙を見せまいと必死に堪えていたのに、涙は言うことを聞かず、瞳の縁に溜まっていく。
その時、一枚のティッシュが目の前に差し出された。
「おめでとう」
声の主は、『暗夜の光』で主人公役を演じた橘史明だった。その声は、いつものように低く、そして優しい。
「ありがとうございます」
私はティッシュを受け取り、そっと目尻を拭った。
橘史明は、私を『暗夜の光』のオーディションに推薦してくれた人だ。その作品で私は盲目の少女を演じ、彼はヒロインの幼馴染役だった。アフレコ期間中、彼は私に多くの声の表現技法を教えてくれ、私が役の魂を掴む手助けをしてくれた。
アニメのアフレコが終わった日、彼がスタジオの外で私に告白してくれた時のことを思い出し、心臓が勝手に速くなる。あの時、私は彼に返事をせず、ただ考える時間が欲しいとだけ告げた。そして彼は、待つよ、とだけ言って頷いてくれたのだ。
授賞式が終わると、私は押し寄せるファンに囲まれ、一人一人にサインをしたり、一緒に写真を撮ったりした。傍らに立つ佐藤理沙は、満面の笑みを浮かべ、口に咥えた煙草に火をつけるのも忘れている。
「ミサエ、あんたが今回は絶対獲るって言ったでしょ!」
彼女は興奮気味に言った。
「知ってる? 『暗夜の光』のBD、もう十万枚突破したのよ。制作委員会が二期の制作を決めたって!」
私が返事をしようとした、その時。背後から聞き慣れた声がした。
「西村」
荒木祈の声だ。
私は聞こえないふりをしてファンのサインを続け、すぐに待たせていた車に乗り込んだ。
車の窓越しに、一人ぽつんとその場に佇む荒木祈の姿が見えた。彼の表情は、別れた日に彼が私に言った最後の言葉を思い出させた。
「西村、俺を愛してるって言うけど、お前の愛情を感じたことなんて一度もなかったよ」
私は目を閉じ、シートに深く身を預けた。荒木祈は色褪せた思い出の中に答えを探せばいい。でも、すべてはもう過去のことなのだ。
家に帰ると、アシスタントがすぐに私に報告してきた。
「ミサエさん、昔の恋バナがツイッターのトレンドに入ってます! 2ちゃんねるで初恋の相手を特定するスレが勢い一位ですよ!」
スマートフォンを開くと、目に飛び込んできたスレッドのタイトルは、『声優アワード受賞者・西村ミサエと彼女が密かに守った夏』。
スレッドには、三年前、私が箱根神社で荒木祈のために絵馬を奉納している写真や、初期のインタビューで「いつか声優アワードを獲れたら、感謝のリストの一番最初に『彼』の名前を挙げます」と約束していた時の記事が貼られていた。
ネットユーザーたちは「彼」が誰なのかと様々に憶測を巡らせていた。私の父親だと言う者、若くして亡くなった恩師だと言う者、果てはペットの犬だと推測する者までいた。だが、誰一人として荒木祈の名前を挙げる者はいなかったことに、私は安堵のため息をついた。
「大丈夫よ」
私はアシスタントに言った。
「インターネットの記憶なんて短いものよ。数日もすれば、誰もこんなこと覚えてないわ」
だが、私自身は知っている。ある記憶は、何年経っても、昨日のことのように鮮明なままだということを。
