第4章
収録が終わると、スタッフたちが慌ただしく楽屋を出ていく。彼らの興奮したひそひそ話が耳に入った。
「荒木エンターテインメントの荒木祈が来てる!」
「マジで? あの超イケメンの御曹司?」
「そうそう! 廊下の向こうにいるって! 早く見に行こう!」
私一人だけが楽屋に残り、手元の台本に集中していた。
これは来週アフレコする新しいパートだ。私はいつものようにセリフの横に印をつけ、感情の起伏のポイントを描き込んでいく。この役は内面の芝居が多く、複雑な心理の変化を声で表現する必要がある。
水を飲もうと顔を上げた時、荒木祈がすでにドアのそばに立っていることに気づいた。いつから見ていたのだろう。
午後の陽射しがドアの隙間から差し込み、彼の横顔のシルエットを縁取っている。濃紺のスーツを身にまとい、表情は穏やかで、まるで静止した絵画のようだ。四つの目が交差し、空気が凍りついたかのようだった。
「江戸さんのお部屋は廊下の突き当たりです」
私は俯いて台本に視線を戻し、平淡な口調で言った。
「ネットのあの書き込み、見たよ」
荒木祈は動かず、低い声で言った。
「『声優アワード受賞者・西村ミサエと、彼女を陰ながら守り続けた夏』」
私の指が微かに止まる。だがすぐに普段通りのリズムを取り戻し、台本に印をつけ続けた。
「あれは、本当のことか?」
彼の声が少し揺らいでいた。
「君は本当に、箱根神社で俺のために祈願を? 本当に、俺のインタビューが載った雑誌を全部集めていたのか? 本当に……俺を愛していたのか?」
私はペンを置き、ようやく彼を見上げた。荒木祈はそこに立ち、表情に何かを堪え、手を白くなるほど握りしめている。まるで溺れる者が最後の藁にすがるかのようだ。
「いいえ」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「その書き込みは私も見ました。全部、ネットユーザーの過剰な深読みです」
荒木祈の瞳が暗くなる。彼は一歩前に出た。
「西村ミサエ、君がいつ嘘をついているか、俺には分かる」
私は立ち上がり、台本を整える。
「荒木さん、もし江戸さんが声優界で長くやっていってほしいと望むなら、彼女のために過剰なリソースを割くのはおやめなさい。声優という仕事は、実力こそが全てです」
言い終わるか終わらないかのうちに、荒木祈が突然ドアを蹴破るように入ってきて、ドレッサーを蹴り倒した。鏡が割れる音が狭い空間にことさら鋭く響き渡り、化粧品が床一面に散らばる。
「西村ミサエ!」
彼は、長い間抑え込んできた怒りを滲ませた声で怒鳴った。
「俺だって、君を一人で声優の夢を追わせたことがある。その結果どうなった? 君は声を失いかけたんだぞ!」
彼の言葉はナイフのように、私の記憶の奥深くへと突き刺さった。
三年前、私はアニメ『深海奇譚』の人魚役のため、二週間にわたって連続で高強度の仕事をした。喉を酷使しすぎた結果、声帯に深刻な炎症を起こし、半月も入院した。
あの時の荒木祈は激怒し、制作会社に直接乗り込んで収録の中止を要求し、監督と音響監督に私への謝罪をさせようとした。
「これからはこんなハードなアフレコは引き受けるな」
病室のベッドの前で、彼は私の手を握り、その目には心配の色が満ちていた。
「ミサエ、俺は怖くなるんだ」
当時の私はごく普通の家庭出身の代役声優で、彼は荒木エンターテインメントの御曹司だった。
私たちは全く違う二つの世界に立っていて、唯一の交点は、私の声優という仕事への情熱と、彼の私への愛だけだった。
退院して間もなく、私は『光の彼方』のヒロイン役のオーディションに合格した。これは非常に重要な役で、もし上手く演じられれば、声優アワードにノミネートされる可能性が高い。私は丸一年スケジュールを空け、毎日発声の特訓に励んだ。ただ、この役を完璧に演じきるために。
最後の難易度の高い泣きのシーンを収録した時、私は再び喉を酷使し、声帯出血を起こしてしまった。その時、荒木祈はニューヨークで会社の用事を片付けており、私は彼に伝えなかった。
このアニメのアフレコさえ無事に終われば、きっと声優アワードを受賞できる。そうすれば、彼と肩を並べて立つ自信が持てる。そう思っていた。
私たちの間の地位はもうこれほど懸絶しなくなり、私も彼の隣に立つ自信が持てるはずだった。
だが、荒木祈は予定より早く帰国し、直接病院にやってきて、ベッドに横たわる私を見てしまった。
「ミサエ、君は俺を愛していると言った」
彼はベッドの前に立ち、その目には今まで見たことのない失望が浮かんでいた。
「だが教えてくれ。どうして、俺は君の愛を一度も感じたことがないんだ?」
彼はドアを乱暴に閉めて出て行った。私はもがきながら後を追ったが、ドアの前で転んでしまった。彼は振り返らなかった。
その日、私たちは別れた。
『光の彼方』は後にキャストが変更され、ヒロイン役は荒木祈の新しい恋人、江戸未来に交代した。
今、荒木祈は私の前に立ち、その瞳の怒りと傷は、あの日と寸分違わなかった。
「お前には、少しでも心があるのか?」
彼の声は低く、掠れていた。
私は彼を見つめる。心の中では無数の感情が渦巻いていたが、沈黙を保つことしかできなかった。
荒木祈、あなたは私を愛していると言った。でも、あなたはただ私を愛しているだけ。
あなたが、私が箱根神社の絵馬にどんな願い事を書いたかなんて、気にするはずがない。
あなたの人生は、なんて豊かなんだろう。
私はあなたの人生という海に沈んだ、一艘の小舟にすぎないのだから。
