第1章 会ったことのない夫
「神崎雅臣が戻ってきた。今夜は光朝クラブにいる。行って顔を出して、少しは情でも繋いでこい」
書斎で父の言葉を聞いた夏目千尋は、鼻で笑った。
三年逃げた夫が、ようやく帰ってくる気になったってわけ?
「……それで?」
夏目博夫が顔を上げる。
「なるべく早く神崎家の子を身籠もれ。子どもさえいれば、お前の立場は固まる。両家の関係も盤石になる」
夏目千尋の瞳が沈む。
夫の顔すら知らないのに、どうやって子どもを作れっていうの?
何年も前、両家の先代同士が、子ども同士の婚約を取り決めた。
当初、夏目博夫は乗り気ではなかった。神崎家が金持ちだろうと、夏目家だって負けていない。もっと良い縁を選べるはずだった。
だが神崎家の勢いは増す一方で、表も裏も押さえ、J市を片手で覆うほどの権勢を得た。
その途端、夏目博夫の態度は変わり、三年前、神崎家に頭を下げて婚約の履行を迫ったのだ。
結婚式当日、神崎雅臣は最後まで姿を見せなかった。
ろくに客もいない式場で、ひとりで儀式を終えたのは千尋だ。あの日以来、彼女は皆の笑い者になった。
後で知った。
神崎雅臣はとっくに海外へ出ていたのだと。
「行かない」
思い出した途端、胸の奥が詰まる。
「私が生きようが死のうが放っておいたくせに、今さら孫が欲しいの?」
夏目博夫の顔色が落ちる。怒りの前触れ。
「千尋。お前の父さんも、お前のためを思って――」
継母の岩崎明依が茶を運びながら入ってきた。柔らかな笑みを浮かべて。
「女はね、子どもがいないと心細いのよ。神崎家でどうやって立っていくの? あなたのお母さまが生きていたら、きっと同じことを言ったはず」
明依は飾り棚へ向かい、玉の腕輪を取り出す。
「ほら、この腕輪。ずっとあなたのために大事に預かっていたの」岩崎明依は穏やかに言った。「お母さまは生前、あなたをいちばん可愛がっていた。あなたが幸せであることを望んでるに決まってるわ」
母の形見。
探しても探しても見つからなかったものが、こんなところに――。
夏目千尋は腕輪を凝視し、爪を掌へ深く食い込ませた。
夏目博夫が続ける。
「千尋、お前は賢い子だ。神崎家は伝統を重んじる。子どもができれば、お前の言葉にも重みが出る。まあ、どうしても嫌なら無理にとは言わんがな」
彼は腕輪を手に取り、わざとらしく眺める。
「ただな。こんなもの、俺のところに置いても安全とは言えん。万が一、うっかり落として割ったりでもしたら……」
「行く!」
夏目千尋は奥歯を噛みしめた。
「でも条件がある」
夏目博夫が目を細める。
「孫を産む。神崎家との関係も固めてあげる。だけど子どもを産んだら、私に五億――それと、その腕輪も返して。それから私を自由にして。ここから出して」
書斎の空気が、数秒、凍りついた。
「五億だと?」夏目博夫の目が陰る。「ふざけるな。図に乗るなよ」
「断ってもいいですよ」
夏目千尋は踵を返し、扉へ向かう。
「腕輪、割りたいなら割れば? その代わり私も、もう駒みたいに扱われなくて済む」
「待て」
夏目博夫は深く息を吸い、歯の間から絞り出すように言った。
「……分かった。認めてやる。だが子どもは必ず神崎家の子だ。ここだけは誤魔化すな」
夏目千尋は扉を開けて出た。
その瞬間、胸の奥に溜まっていた酸っぱいものが、どうしても堪えきれなくなる。
母は千尋が十代の頃に亡くなった。
夏目博夫に追い詰められ――そう、あれは怒りと絶望で殺されたようなものだ。まだ七日も過ぎていないのに、夏目博夫は不倫相手と隠し子を家へ連れてきた。
最初は、娘と息子を公平に扱うそぶりもあった。
けれど結局、娘は息子に勝てない。
息子は家業を継ぐ道具で、娘は家業を守る道具。
夏目千尋は喉の奥の苦しさを押し殺し、涙を拭った。
もういい。
子どもさえ産めば、金を持ってこの家から逃げられる。
……
光朝クラブ。
夏目千尋は給仕の制服を着て、廊下の角の陰に立っていた。
遠目にも分かる、酔った長身の男。
すっと伸びた姿勢、彫りの深い顔立ち、高い眉骨。濃い灰色のシャツの袖を肘まで捲り、滑らかな線の前腕を見せている。
歩くだけで、生まれつきの高貴さと距離感が漂った。
神崎雅臣。
結婚して三年――今日が初めて、その顔をはっきり見る夫。
夏目千尋は影へさらに身を縮めた。
男が横を通り過ぎる。ふわりと漂う酒気に、ほのかな甘い香り。
これから自分が何をするのか分かっているせいで、胸が落ち着かない。男が個室へ入ったのを見届けてから、千尋は深く息を吸い、酔い覚ましのスープを盆に乗せて向かった。
酔い覚ましのスープは事前に用意した。中には効き目が強いと聞いたものを混ぜてある。
名乗って取引を持ちかけることも考えなかったわけじゃない。
でもすぐに、その考えを押し込めた。
取引できるだけの武器が、彼女にはない。
それに、結婚式から逃げて海外へ行った男が、彼女と子どもを作るはずがない。
個室の前でノックする。
「神崎様、ご注文の酔い覚ましのスープをお持ちしました」
中から足音。
扉が開き、男が片手で枠に寄りかかる。見下ろされるだけで息が詰まる。
「中へお持ちします」
夏目千尋は顔を伏せたまま入った。
部屋は灯りがなく、厚いカーテンが外のネオンを遮っている。
神崎雅臣はソファに腰を下ろした。微酔でも、容易に近寄れない圧がある。
平静を装い、器を差し出す。
「これを飲めば、楽になります」
神崎雅臣は受け取ると、一息に飲み干した。
夏目千尋は脇に立ち、心臓が鼓のように鳴る。
器がテーブルに置かれ、彼女が帰らないのを見て、神崎雅臣の眉が僅かに寄った。目つきが危険な色に変わる。
「……まだいるのか?」
夏目千尋は息を吸い、いきなりスカート脇のファスナーを引いた。
黒いワンピースが床へ落ちる。
神崎雅臣の目が鋭くなる。酔いが半分以上醒めた。
「何を――」
次の瞬間、女はそのまま跨り、強引に押し倒した。
柔らかな唇が押し付けられる。
神崎雅臣の身体が硬直する。体内の火が、一気に燃え上がった。
あの酔い覚ましのスープ――何か入ってる!
男は体勢を返し、女を押さえ込む。眼差しは氷のように冷たい。
「言え。誰に遣わされた」
夏目千尋は長い脚を彼の引き締まった腰に絡め、指先を喉仏から滑らせた。
「そんなの、どうでもいい。大事なのは……今、あなたの熱を冷ませるのは、私だけってこと」
指がベルトの中へ潜り、強く握る。
男が低く呻き、彼女の手首を掴む手に青筋が浮いた。
「考え直せ」
顎を持ち上げ、荒い息を吐く。
「今ならまだ――引ける」
夏目千尋は笑い、下唇を噛み、指先で弄ぶ。
――ぶつん。
神崎雅臣の最後の理性が切れ、低く唸って彼女の唇を奪った。
ざらりとした掌が乱暴に衣服を引き裂き、柔らかな膨らみが暗闇に弾ける。
荒く揉まれ、部屋に残るのは重い息と絡む体温だけ。
どれほど経ったのか。
男が猛然と貫き、夏目千尋は悲鳴を上げ、痛みに背を弓なりに反らせた。
男の動きが止まり、嘲るような笑いが漏れる。
「……処女か。送り込んだ奴、随分と金をかけたな」
夏目千尋は唇を噛み、目尻が熱くなるほど痛いのに、引かなかった。
闇の中の深い瞳を睨み返す。
「……結局、できないの? ぐずぐずして」
神崎雅臣は呆れたように笑い、掠れた声がいやに色っぽい。
「見せてやる。俺ができるかどうか」
身体を沈め、さっきより深く、強く。
夏目千尋は震え、爪が彼の肌に食い込む。
痛みの奥から、別の羞恥と渇きが込み上げてきた。
汗で濡れた肌同士が張り付き、息が乱れる。
やがて、ようやく静まった。
男の呼吸が徐々に落ち着き、薬の反動か、そのまま眠りに落ちた。
夏目千尋はそっと押しのけ、起き上がる。
痛い。全身が、骨の芯まで痛い。
暗闇で服を探し、一枚ずつ身につける。
出ようとした瞬間、テーブルのスマホがふっと光った。
神崎雅臣の携帯だ。
画面に、メッセージが表示される。
【神崎社長、例の女は見つかりました。処理しますか?】
夏目千尋はその一行を見つめ、頭の中がぐわんと鳴った。
例の女――私?
処理って、何……?
帰国して真っ先に、私を消すつもりだった……?
その考えが浮かんだ途端、血の気が引いた。
さっきまでの大胆さが、急に恐ろしくなる。
もう一秒もいられない。
夏目千尋は息を殺し、逃げるように部屋を出た。
家まで走り、扉を閉めて、肺が痛くなるほど息をした。
知られてはいけない。
絶対に。暗かったし、灯りもなかった。顔なんて分からないはず――。
そう言い聞かせ、心拍が落ち着いた頃、風呂へ行こうとしてスマホが震えた。
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【俺だ。神崎雅臣】
指が震え、スマホを落としそうになる。
