第3章 車内
車内の空気は、艶めかしく、それでいてどこか薄い。
男の大きな体が放つ圧に押し潰されそうになりながら、夏目千尋は無理やり顎を上げさせられ、背中をドアへぎゅっと押しつけた。
「……喋れ」
神崎雅臣が目を細める。指に力がこもった。
「手を尽くして俺のベッドに潜り込んだくせに、今さら知らん顔か?」
千尋の心臓は狂ったように跳ねた。それでも視線だけは逸らさない。逸らしたら負ける気がした。
「神崎社長、人違いじゃないですか」
口元に、かろうじて笑みを貼りつける。
「私たち、会ったことあります?」
神崎雅臣は冷笑し、指の腹で彼女の赤い唇を乱暴に擦った。
「……あの夜、薬を盛ったのもお前だ。誰の差し金だ?」
千尋は爪が食い込むほど手を握りしめながら、胸の奥でそっと息を吐く。
――よかった。まだ掴んでない。私が、名目上の妻だってことは。
「何のことか分かりません」
千尋は顔を背け、掴まれていた手を振りほどく。
「降ろしてください。じゃないと通報します」
「通報?」
次の瞬間、神崎雅臣は彼女の腰をつかみ、ぐっと引き寄せた。胸元に叩きつけられるような距離。
「やってみろ。捕まるのは薬を盛ったお前か、それとも俺か」
吐息が絡むほど近い。薄い布越しに伝わる体温が、熱くて、危険で――。
千尋の脳裏に、あの夜が勝手に蘇る。
埋め尽くされるような灼熱。抑えきれず、脚に力が入った。
奥歯を噛みしめ、目の前の男を睨む。
退けば退くほど、絡みつかれて逃げられなくなる。千尋はそれを痛いほど分かっていた。
だから――。
千尋の瞳がふっと揺れて、笑う。
身体から力を抜き、そのまま神崎雅臣の胸へ凭れた。指先で彼のネクタイを軽く引っかけ、耳元へ甘い息を落とす。
「神崎社長、そういうことなら最初から言ってください」
わざと柔らかく、媚びるように。
「てっきり、清算しに来たのかと思いました。……もしかして、味をしめたんですか? あの夜が忘れられなくて」
神崎雅臣の身体がぴたりと固まる。眉間が深く寄った。
千尋の指先はネクタイを辿って下へ滑り、彼の胸元をとん、と押す。
「もう一回寝るのも、別にいいですよ。いつでも相手します」
小首を傾げ、笑みだけを濃くする。
「でも神崎社長って気前いいんですね。今度はいくら出すんです?」
車内の温度が、すっと落ちた。
神崎雅臣が彼女の手首を掴む。骨が砕けそうなほどの力。
「……金が欲しいのか」
声には、露骨な嫌悪が滲んでいた。
「じゃなきゃ何を?」
千尋は笑みを崩さない。むしろ、いっそう明るく咲かせてみせる。
「まさか、神崎社長の心ですか? 大人同士でしょう。必要なものを交換するだけ。払えるなら、満足させますよ」
神崎雅臣は彼女の顔を見つめたまま、さっきまでの興が一気に冷めていくのを感じていた。
策士かと思えば、結局は金で股を開く女。
自分に群がる連中と――何も変わらない。
彼は乱暴に手を放し、湿ったシートを取り出して指先を拭った。まるで汚れに触れたみたいに。
「……消えろ」
千尋は胸の奥で、大きく息を吐いた。
一秒たりとも留まらない。ドアを押し開け、そのまま跳び降りる。
黒いマイバッハが砂埃を残して走り去り、冷たい風が頬を叩いた。
千尋は道端で冷えた腕をさすり、長く濁った息を吐き出す。
……なんとかやり過ごした。
七日。たった七日耐えて、妊娠だけ確認できれば――金を手にして、全部終わる。
翌日。
会社に着くなり、千尋は部長に呼ばれて応接に通された。
「アンナ。星盛グループの件、今日お前が行ってこい」
部長は分厚い資料を机越しに押し出す。
身元が割れないように、会社では英名を使っていた。推薦してくれた先輩の久野清遠以外、彼女の本名を知る者はいない。
千尋は資料を受け取り、ぱらりと捲って眉を上げた。
「これ……石川さんが追っていた案件じゃ?」
「石川は病欠だ。急ぎでな。向こうは今日中に一次案を見たい」
部長は肩を叩き、言い聞かせるように続ける。
「お前は丁寧だ。相手の腹を探って来い。取れたら歩合も弾む」
千尋は頷いた。
今いちばん必要なのは金。断る理由なんてない。
午後2時、星盛グループ。
受付に案内され、最上階の会議室へ通される。
「少々お待ちください。社長がすぐ参ります」
千尋は席に着き、企画書をもう一度確認した。
そのとき、廊下から足音が近づく。
会議室の扉が開いた。
「どうも」
低く、硬い声。
千尋の指がぴたりと止まる。
この声――。
顔を上げた。
神崎雅臣が、高級仕立てのダークスーツで入ってくる。片手をポケットに、背後には幹部らしき男たちと助手。
視線がぶつかった瞬間、空気が凍りついた。
千尋の頭の中が、ぶわんと鳴る。手の資料が落ちそうになる。
星盛グループの社長が――神崎雅臣……?
神崎雅臣は彼女を見るなり足を止め、口角に嘲りの弧を描いた。
主座に座り、脚を組む。冷え切った傲慢さ。
「……大した手口だな」
嘲弄を孕んだ声が落ちる。
「昨日は散々『押して引いて』見せたと思ったら、今日は会社まで追ってきたか」
幹部たちが互いに顔を見合わせ、場の空気が妙に歪む。
千尋は深く息を吸い、立ち上がった。
「神崎社長、私は案件の打ち合わせに――」
資料を両手で差し出し、説明しようとした瞬間。
神崎雅臣は一瞥すらくれない。
「打ち合わせ?」鼻で笑う。
「下衆い手で俺の行動を探っておいて、仕事だと? 信じると思うか」
「星盛グループが神崎社長の会社だとは知りませんでした」
千尋は胸の奥の怒りを押し込み、営業用の笑みを保つ。
「この案は、チーム全員で徹夜を三回重ねました。ご確認ください」
「持ち帰れ」
神崎雅臣の声は冷たかった。
「星盛グループは心の汚い相手とは組まない。白石深尾、追い出せ」
白石深尾が一歩前へ出る。
「お引き取りください」
千尋は動かなかった。指に力が入り、資料の角がわずかに歪む。
「神崎社長、それは私怨です」
まっすぐ見据える。
「お前ごときに私怨を抱くと思うか?」
神崎雅臣は椅子にもたれ、軽蔑を隠さない。
「そういう女は何人も見てきた。昨日は金、今日は案件。欲深いな」
書類を卓上へ叩きつける。乾いた音が会議室に響いた。
「荷物を持って、今すぐ出ていけ」
千尋は怒りで笑いそうになった。
「偏見は仕方ありません。でもこれは、うちの班の全員の成果です。見もしないで全否定するなんて、あまりに失礼です」
神崎雅臣の顔が沈んだ、そのとき。
会議室の扉が勢いよく開く。
「雅臣!」
甘えた声が、張り詰めた空気を裂いた。
全身ハイブランドの若い女が入ってきて、周囲を無視して神崎雅臣の腕へ絡みつく。
「まだ会議してるの? ドレスの試着、付き合ってくれるって言ったのに」
女は甘えるように身を寄せ、半身をぴたりとくっつける。
神崎雅臣はかすかに眉を寄せたが、振りほどかなかった。
「すぐ終わる」
声だけが、少し柔らぐ。
千尋の胸の奥で、冷たいものが笑った。
――名目上の夫。
帰国して早々に離婚を突きつけた理由は、これか。隣にはもう「相手」がいる。
そのとき、女が千尋へ視線を向ける。
腕を離し、ヒールを鳴らして近づき、上から下まで値踏みするように見回した。
「……あなた」
眉をひそめ、首を傾げる。
「どこかで会った? なんか、すごく見覚えがあるんだけど」
千尋の心臓が、ひゅっと落ちた。鼓動が一拍、抜ける。
