第5章 清楚ぶってんじゃねえ
夏目千尋ははっと顔を上げ、眉間に深い皺を刻んだ。
「神崎社長。私は取引の話をしに来ただけです。あなたに私を侮辱する資格なんてありません」
ところが神崎雅臣は鼻で笑った。
そのまま手首をつかみ、一息に引き寄せて、彼女の身体を大ぶりの本革ソファへ放り投げる。
千尋が起き上がる間もない。男は影のように覆いかぶさり、逃げ道ごと押し潰した。
「清楚ぶってんじゃねえよ」
神崎雅臣は片手でシャツの上のボタンを二つ外す。引き締まった胸元が覗いた。
「この前、個室じゃ今よりずっと積極的だったくせに……」
濡れた熱を含んだ声に、千尋は否応なく思い出す。耳元へ落ちてきた荒い息遣い。
羞恥で歯を食いしばり、頬がかっと熱くなる。だが薄暗い照明に紛れて、表情は読み取られない。
千尋は必死に暴れ、両手で男の胸を押して距離を作ろうとした。
「放して! 狂ってる!」
「俺が狂ってる?」
神崎雅臣は冷たく笑い、ネクタイを乱暴に引き抜いて床へ投げ捨てた。
「お前がわざわざ俺の前にちらついたのは、結局これが目当てだろ」
そして唇を奪いにくる。
千尋が顔を背けると、口づけは首筋の窪みに落ちた。
じわりとした熱が伝わった瞬間、千尋の身体がびくりと強張る。膝を立て、男の急所へ思い切り突き上げた。
だが神崎雅臣の反応は速い。長い脚で押さえ込み、千尋の脚をソファに縫い付ける。
スーツ姿は、皮肉にも彼の手には都合がよかった。
熱い掌が艶めかしく太腿を撫で上げ、タイトスカートの裾からするりと入り込む。
千尋は震え、目尻が赤く滲む。
神崎雅臣の薄い唇が落ちてきて、容赦なく彼女の唇を蹂躙した。
千尋はぱっと口を開き、思い切り噛みつく。鉄錆のような甘い血の味が、瞬く間に広がった。
神崎雅臣の動きが止まる。
その隙に千尋は押し返し、転げるようにソファの端まで退く。乱れた服を慌てて整え、胸が大きく上下する。
「神崎雅臣……やりすぎよ」
声が震え、目尻が熱い。
神崎雅臣はゆっくり立ち上がり、引っ張られて皺になった襟元を整えると、見下ろすように彼女を見た。
「何がやりすぎだ」
嘲るように息を漏らし、極めて軽蔑した口調で言う。
「あの個室じゃ、そんな顔してなかっただろ」
千尋の顔色がすっと失せ、爪が掌に食い込む。
「私は取引の話だけをしに来たんです!」
彼女はローテーブルの企画書を掴み、もう一度差し出した。
「これが盛天の誠意です」
神崎雅臣は一瞥もしないまま、片手で払った。
バサッ。ファイルが床へ落ち、A4が散らばる。
「星盛グループは、身体でのし上がる手合いは要らない」
神崎雅臣はバーカウンターへ向かい、グラスに酒を注ぐ。
「白石深尾」
個室の扉が押し開かれ、白石深尾が足早に入ってくる。
「神崎社長」
「放り出せ。次からは変なのを入れるな」
白石深尾は千尋の前で、淡々と手のひらを返した。
「お引き取りください」
千尋はしゃがみ込み、散らばった紙を一枚ずつ拾う。
紙の端が指先を切り、小さな血がぷつりと滲んだが、声は出さない。黙ってまとめ、立ち上がる。
そのとき、扉が再び勢いよく開いた。
濃い香水の匂いが流れ込む。
「雅臣、こんなところにいたの? 探したんだから!」
三上奈菜が唇を尖らせ、トップメゾンのオートクチュールに身を包んで入ってくる。
室内の千尋を見た瞬間、足が止まった。
乱れた髪、赤みの残る目元。さらに、ボタンを外した神崎雅臣のシャツに視線が移り、奈菜の顔が一気に険しくなる。
「また会ったわね」
作り笑いのまま、ヒールを鳴らして千尋の前へ。二人にしか聞こえない声で吐き捨てる。
「昼は会社、夜はここまで? 雅臣を誘惑するために来たんでしょ。恥ってもの知らないの?」
千尋は書類を握り締め、冷ややかに見返した。
「言葉を選んでください。私は仕事の話で来ました」
「仕事?」
奈菜はさらに声を落とし、指で千尋の肩をつつこうとする。
「誰が夜中に個室で仕事の話するのよ。あんたみたいなの、いくらでも見てきた。男のベッドに入りたくて手段選ばない女」
千尋は身体をずらし、指先を避けた。
「自信がないなら、男に媚びる努力でもしたら? ここでヒステリー起こすより、よっぽど建設的です」
「……っ!」
奈菜は歯を食いしばると、背中側で千尋を強く押した。だが次の瞬間、わざとらしく声を上げて自分が倒れ込み、神崎雅臣のすぐ傍へ転がった。
「雅臣……この人、私のこと嫌ってるの?」
奈菜は神崎雅臣の腕に縋りつき、涙をぽろりと落とす。
「襟が皺になってたから直そうとしただけなのに、突き飛ばしたの!」
神崎雅臣はグラスを手に、バーカウンターにもたれたまま冷たく眺めている。言葉はない。
千尋は、これ以上のやり取りが無意味だと悟り、背を向けた。
「待て」
神崎雅臣の低い声が飛ぶ。
千尋の足が止まった。
神崎雅臣は近づき、グラスをローテーブルへ置いた。カチン、と乾いた音。
「話がしたいってんなら、チャンスをやる」
床に散った数枚を指先で示す。
「ターゲットが狭い。売り方も古い」
そして目を細める。
「10分だ。この場で、俺が納得する代案を出せ。できないなら二度と俺の前に現れるな。分かったか?」
千尋は奥歯が砕けそうだった。10分など、難癖以外の何でもない。
それでも、これが唯一の糸だ。
「……分かりました」
千尋は椅子を引いて座り、バッグからタブレットとペンを取り出す。原案を高速で読み返し、頭を回転させる。
個室に響くのは、ペン先が画面を叩く小さな音だけ。
時間がじりじりと過ぎる。
額に薄い汗が滲み、指先が画面を滑る。
オンライン一辺倒だった導線を、オンラインとオフラインの連動へ組み替え、最新のAI体験施策を差し込む。荒削りだが、骨格だけは立てた。
「時間だ」
神崎雅臣が腕時計に目を落とし、気だるげにテーブルをとん、と叩く。
千尋はタブレットを差し出した。
「神崎社長。AIのインタラクションで――」
言い切る前に、三上奈菜がふいに身を乗り出し、肘で「うっかり」ぶつけた。
「きゃっ」
タブレットが床へ落ち、画面は蜘蛛の巣状に砕け、真っ黒になった。
千尋は勢いよく立ち上がり、奈菜を睨みつける。
「何してるんですか!」
奈菜は口元を押さえ、無垢を装う。
「ごめんなさい。わざとじゃないの」
そして追い打ちをかけるように笑う。
「クラウドにバックアップしてないの? 大事な案なら普通は保存するでしょ」
千尋の身体が怒りで震えた。
今作ったばかりの案だ。保存する暇などない。
こいつは解決策を提示しているふりで、彼女を「不慣れ」だと印象づけている。
千尋がタブレットを拾おうと屈んだ拍子に、バッグの中身が床へ散らばった。
口紅、鍵、ティッシュ――そして、カッターナイフ。
昼、会社で紙を裁ったときに入れたままだった。
奈菜の目がそれを捉える。
「……ナイフ! どうしてナイフがあるの!」
奈菜は神崎雅臣の腕にしがみつき、震える声を出した。
「雅臣、怖い……!」
千尋は一瞬呆れ、それから怒り混じりに笑った。
「カッターです。想像力が豊かすぎませんか」
奈菜は神崎雅臣の背へ隠れる。
「持ち歩いてる時点でおかしいし、ここに持ってくるなんて……私、どうしても嫌な想像しちゃう。雅臣……!」
神崎雅臣の視線が床のカッターに落ち、次いで千尋へ移る。
千尋は背筋をまっすぐ伸ばし、顎をわずかに上げた。動揺は見えない。
神崎雅臣は苛立ったようにネクタイを引く。
「10分だ。お前は案を俺に見せられなかった」
そして冷たく呼ぶ。
「白石深尾。連れていけ」
「神崎社長、案は作りました。三上さんがタブレットを壊しただけです。こんな言いがかりで全否定しないでください!」
千尋は一歩前に出て、堪えきれず言い返した。
神崎雅臣は冷えた目で見下ろす。
「星盛グループは案に困ってない。茶番に付き合う暇もない」
扉へ向かい、吐き捨てる。
「出ていけ」
白石深尾が千尋の前に立ち、行く手を塞いだ。
「どうぞ。警備を呼ばせないでください」
