第6章 不倫相手と間違われる
夏目千尋は神崎雅臣の背中を、扉の向こうへ消えるまでじっと見送った。
彼女は腰をかがめて床に落ちたものを拾い上げる。あのカッターも一緒に、掌が痛むほど強く握り締めたまま、くるりと踵を返し、大股で個室を出た。
ヨルの正面を出たところで、夏目千尋は肩を落とした。
夜風が吹きつけ、思わず身震いする。
手の中のカッターはまだ、指が痺れるくらい固く握ったまま。街のネオンを眺めていると、胸の奥がふわりと宙に浮いたように心許ない。
そのとき、バッグの中でスマホが震えた。
画面が灯り、「心菜」の名前が跳ねる。
夏目千尋は通話を取った。
「アンナ、どうだった?」葉山心菜の声は心配に滲んでいる。「従兄、企画書は見てくれた?」
夏目千尋はこめかみを押さえた。さっきの個室での一件を思い出すだけで、頭の奥がずきずきする。
「……やめて。聞かないで」
「え? まだダメ出しされた?」葉山心菜がため息をつく。「従兄はさ、要求が高いんだよ。仕事の鬼みたいな人だし。落ち込まないで。帰ったら直して、次は私がまたアポ取るから」
夏目千尋は乾いた笑いを漏らす。
次、なんてあるはずがない。
神崎雅臣は、次の機会なんて最初から彼女に渡していなかった。
「うん、分かった。もう遅いし、先に休んで。私は帰る」
通話を切り、スマホをバッグへ押し込む。コートをかき合わせ、夏目千尋はヨルの夜の中へ歩き出した。
同じ頃、会所の最上階の個室。
神崎雅臣はソファに沈み、ネクタイは無造作に脇へ放り投げられていた。
彼は葉山心菜に発信する。
「従兄?」
「荷物、まとめておけ。E国へ行け」
電話の向こうが、二秒ほど沈黙したあと、声が跳ね上がった。
「は? なんで急に海外!? 私、こっちでちゃんとしてるのに! 従兄、そんな――」
「外で少しは躾を覚えろ」
神崎雅臣はライターを指で弄びながら言い捨てる。
「くだらない連中と、つるむな」
「くだらないって誰のこと!? アンナのこと言ってるの? あの子は従兄が思ってるような人じゃない! 従兄は何も分かってない!」
神崎雅臣は鼻で笑った。
分かっていない?
脳裏にちらつくのは、さっきまでの夏目千尋。媚びるように熱を上げ、やけに積極的だったくせに、最後は妙に清潔ぶった顔で刃物を握り締めた女。
「口答えするな。手続きは白石深尾にやらせる」
「なんで……私、行か――」
「相談じゃない」
反論させる隙も与えず、神崎雅臣は通話を切った。
腹に何枚も皮を被った女だ。葉山心菜じゃ勝てない。
早めに引き離しておくに越したことはない。
翌日の夜。
金軒亭の店先。
夏目千尋は鳴海部長を肩で支え、階段を一段ずつ下りていた。
鳴海部長は泥酔していて、体重がほとんど彼女にのしかかる。
「鳴海部長、しっかり……代行、呼びましたから」
夏目千尋は歯を食いしばり、必死に踏ん張った。ヒールが地面にめり込みそうになる。
鳴海部長が「げぇ」と酒の臭いを吐き、鼻を刺すアルコールがむっと迫る。
脂の浮いた手が当然のように彼女の腰へ回り、ぐいっと握り潰した。
「アンナぁ、お前の案なぁ、よかったぞ。先方も満足で――」
胃がひっくり返りそうになり、夏目千尋はその手を力任せに剥がした。
「部長、酔いすぎです」
路肩の石のボラードに鳴海部長を一度もたせかけ、自分は二歩下がって息を整える。それからまた男の身体を抱え直した。
今日会社へ戻った途端、社長に「付き合え」と言われた。
こういう役は普段なら石川がやっていたのに、よりによって石川が休みで――。
その時、黒いマイバッハが音もなく角を曲がり、路肩に滑り込んだ。
後部座席の窓が半分だけ下りている。
神崎雅臣は背もたれに凭れ、指の間に煙草を挟んだまま、何気なく視線を上げた。
道路の向こう、レストランの前。
タイトなスーツに身を包んだ女の身体の線は艶やかで、そこへ禿げ上がった年嵩の男が半身を貼りつけている。手は腰に、いやらしく食い込んだまま。
引っ張り合う仕草まで、妙に生々しい。
神崎雅臣は煙を吐き、口元に冷笑を刻んだ。
昨夜は個室で、屈しない女のふりをして、カッターまで握って脅したくせに。
今日は相手を変えて、路上で抱きついている。
金さえ積めば、誰にでも口をつける女。
反吐が出る。
……
夏目千尋が代行を呼び終え、鳴海部長の車のドアを開けて後部座席へ押し込んだ、その時。
背後で、きいっと耳を裂くブレーキ音がした。
赤いポルシェが路肩で急停車し、ドアが乱暴に開く。
三人の女が、怒気を纏って飛び出してきた。
先頭の中年女はミンクのコートを羽織り、三歩で距離を詰めると、夏目千尋の前に躍り出た。
夏目千尋が状況を飲み込むより早い。
パァン、と乾いた音。
頬に重い衝撃が走り、夏目千尋の顔が横へ弾けた。背中が車のドアにぶつかり、耳の奥がじんじん鳴る。
半分の頬が灼けるように熱く、腫れ上がっていく。
「この泥棒猫! 私の夫に手ぇ出す気!?」
中年女は指を突きつけ、怒りで顔を歪ませて罵り散らした。
夏目千尋は頬を押さえ、眩暈を堪えて背筋を伸ばす。
「誤解です。私は鳴海部長の部下で、部長が酔われたので代行を――」
「部下? 部下が深夜に上司の懐へ潜り込むの? 私が目ぇ腐ってるとでも?」
「今だって見てたんだから!」
女は聞く耳を持たず、振り返って連れの女たちを手招きした。
「こいつよ! やって!」
後ろの二人がすぐさま前へ出る。
三人が夏目千尋を囲み、逃げ道を塞いだ。
一人が髪を掴んで下へ引きずり、もう一人の爪が頬を狙ってひっかく。
「男に媚びるからよ!」
頭皮が裂けそうに痛み、夏目千尋は強引に前屈みにさせられる。
顔を庇いながら必死に押し返した。
「やめて! これ以上やるなら警察呼びます!」
「呼べば!? 泥棒猫の面、警察に見せてやりな!」
びりっ、と布の裂ける音。
揉み合いの中、誰かが乱暴に引きちぎったのだろう。
夏目千尋の白いブラウスの襟元が裂け、ボタンが二つ、ぱらりと地面に落ちた。露わになったのは、白すぎる肌の一部だった。
