第1章
秋葉原にある高級家電量販店。
高橋由梨はスマートホームエリアに立ち、最新のカップル向けスマートウォッチの上を、そっと指でなぞっていた。
「こちらが今季の主力商品でして、心拍数や位置情報をリアルタイムで共有できるほか、パートナーの感情の揺れまで感知できるんです」
店員が熱心に説明する。
「お客様のようなお若いカップルにぴったりですよ」
由梨は愛想笑いを返したが、その視線は無意識に店の入口へと向いていた。
藤田祐一は、もう四十分も遅刻している。
彼が立ち上げたベンチャー企業がVCから資金調達したばかりで、最近は特に多忙なのだと分かってはいる。だが、今月に入ってからの遅刻は、これで三度目だった。
スマートフォンが震える。由梨は期待して画面を開いたが、表示されたのは祐一からの短いメッセージだけだった。
『ごめん、あと三十分。急に投資家との面談が入った』
由梨は静かにため息を吐いた。
六年間。大学のコンピューターサイエンス学科で出会ってから今まで、二人の関係はまるで、祐一の会社の評価額に連動しているかのようだ。
両親から結婚の時期を尋ねられるたび、彼はいつも会社を言い訳にして話を逸らしてきた。
「カップル向けの位置情報共有システムもございまして、スマートホームに設置すれば——」
店員はなおも売り込みを続ける。
「ありがとうございます。もう少し、一人で見てみますね」
由梨は丁寧に、しかしきっぱりと断った。
再びスマートフォンが震える。今度はメールの通知だった。
見知らぬアドレスから、本文のないリンクが一つだけ送られてきている。
由梨は一瞬ためらった後、リンクをタップした。
【プログラマーの彼女と六年付き合ってるけど、性格の不一致に気づいた。でも、妊娠したって告げられたばかりなんだが、どうすればいい?】
由梨の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
投稿には、あるカップルの馴れ初めから現在までが詳細に綴られていた。大学のマラソン大会での出会い、二人で開発したプライベートアプリ、そして最近になって気づいたという「性格の不一致」。
ユーザー名は匿名だったが、そのディテール——北海道の技術セミナー、深夜残業の際に届けられた手作りの弁当、さらには二人が去年の冬に共同開発した、あのプライベートなメッセージアプリ——あまりにも、自分たちの思い出と重なりすぎていた。
「これ、祐一の文章……」
由梨は呟き、指先が微かに震える。
おとといの夜、彼女は二人だけが使えるあのアプリで、祐一に妊娠を告げたばかりだった。
彼はその時、とても喜んでいるように見えた。責任を取ると約束し、結婚についても本格的に話し合おうとさえ言ってくれた。
それなのに、この投稿は。
掲示板の向こう側で、彼は「円満に別れる方法」を尋ねている。
由梨は眩暈を感じ、スマートフォンを滑り落としそうになった。
ひとつ深呼吸をすると、素早く投稿内容のスクリーンショットを保存し、自社で開発したデータフォレンジックツールを起動。投稿のメタデータとIPアドレス情報を抽出する。
データ分析の結果が、画面に表示される。
投稿に使われたIPアドレスは、祐一の会社の所在地と完全に一致していた。
「お客様、大丈夫ですか?顔色が優れませんが」
店員が由梨の青白い顔に気づき、心配そうに声をかける。
「ええ、大丈夫。……もう、何も買う必要はなくなりましたから」
由梨は静かに言った。
彼女はスクリーンショットと分析結果を、プライベートな暗号化クラウドストレージの『証拠』という名のフォルダにアップロードし、静かに店を後にした。
夕暮れ時、由梨は秋葉原の電気街にあるカフェにいた。
ここは、彼女と祐一が初めて出会った場所だ。六年前のマラソン大会で同じチームとして優勝し、その後、祐一は一学期間、ずっと彼女を追いかけ続けた。
今、祐一から三件のメッセージが届いている。どこにいるのか、なぜ返事をしないのかと。
由梨はスマートフォンをマナーモードに切り替え、窓の外で次第に灯り始めるネオンをただ見つめていた。
かつての祐一がしてくれた、たくさんのことを思い出す。
バグで動かなくなったコードを、朝の三時まで一緒にデバッグしてくれたこと。
冬には彼女のデスクに、そっとカイロを置いてくれたこと。
自分の食費を切り詰めて、高価なプログラミングの専門書をプレゼントしてくれたこと。
北海道の技術セミナーに連れて行ってくれ、雪の中で二人だけのメッセージアプリを一緒に作ったこと。
だが、現実こそが真実だ。
資金調達に成功して以来、祐一はほとんどのデートに遅刻し、ドタキャンも増えた。そして、SNSで他の女性とやり取りする頻度は、明らかに増えている。
『あなたは小さい頃から完璧主義者で、算数の問題で数式が一つでも綺麗に書けていないと我慢できない子だった。この先どうなることか。だって、感情っていうのは、一番完璧にはいかないものなのよ』
母の言葉が、耳元で蘇る。
由梨は立ち上がり、カフェを出た。
秋葉原の街はネオンが煌めき、電子広告のサイネージが色とりどりの光を放っている。
もう夜の八時だというのに、彼女はまだマンションに帰る気になれず、祐一から新しいメッセージも来ていない。
彼女は深く息を吸い、スマートフォンを開くと、あのプライベートなメッセージアプリに、最後の言葉を打ち込んだ。
「別れましょう」






