第2章
マンションの照明は、柔らかなブルーに設定されていた。
藤田祐一はソファに深く沈み込み、疲れ果てた様子で眉間を揉んでいる。
彼は顔を上げ、誰もいない空間に向かって言った。
「システム、照明を暗くしてくれ」
声に反応し、照明はすぐに落ち着いた色調へと落ちた。
「由梨、なんでこんなに遅いんだ!」
ドアを開けて入ってきた高橋由梨を見るなり、祐一は不機嫌な声を上げた。
「お前、自分が妊娠してるって分かってるのか?一人で夜遅くまでうろつくな。家事ロボットはどうしたんだよ」
由梨は玄関に立ち、散らかり放題の部屋を静かに見渡した。
靴箱からは靴が溢れ、ソファには充電ケーブルやタブレットが無造作に投げ出されている。
目の前の男が、かつて夜更けまで隣でプログラミングをしながらも、自分を優しく気遣ってくれた彼と同一人物だとは、とても思えなかった。
祐一はまだ、あのアプリを開いていない。自分が送った、たった一言のメッセージすら見ていないのだ。
以前の彼なら、どんな些細なメッセージにも、真っ先に返事をくれたのに。
「システムがアップデート中で、サービスを一時停止してるの」
由梨は静かに答え、コートを脱いでハンガーに掛けた。
祐一は文句を言いながら立ち上がると、リビングの隅にあるスマートホームのコントロールパネルを苛立たしげに指差した。
「こんなに散らかってて、何とも思わないのか?少しは片付けろよ。……腹減った。ラーメン作ってくれ」
「お医者様から、電磁波を浴びすぎないようにって言われてるの」
由梨は、わざと彼に思い出させるように言った。
「それに、妊娠中は家事の心配をさせないって約束してくれたじゃない。そのために、この家事ロボットを買ったんでしょう?」
「それは創業期の話だろ。今は状況が違う」
祐一は腕のスマートウォッチの通知を鬱陶しそうにオフにすると、責めるような口調で続けた。
「もうすぐ籍を入れるんだぞ。こっちは会社で毎日、AIシステムのクラッシュ対応に追われてクタクタなんだ。家に帰ってきて、温かいラーメン一杯食いたいって思うのが、そんなに贅沢なことか?」
由梨は静かに彼を見つめていた。
そして、ふと気づいてしまった。祐一は心の底から、結婚すれば彼女という独立した個人が、自分を世話するだけの『付属物』に変わるべきだと信じているのだ、と。
その無自覚な侮辱が、彼女の心を深く、静かに突き刺した。
「結婚したら、妻としての責任を果たすことを学べよ。当然だろ」
祐一は吐き捨てるように言った。
その時、由梨は気づいた。祐一が身に着けているスマートネクタイピンが、自分が贈った心拍数モニター機能付きのモデルではないことに。
その些細な、しかし決定的なディテールが、彼女の脳内で警報を鳴らした。
「祐一。あなたがそんなに不満なら、やっぱり別れましょう」
由梨は、凍るほど冷静に告げた。
「はあ?また馬鹿なこと言って……」
祐一は呆れ果てたように、大げさに首を振った。
由梨の思考が、過去へと飛ぶ。
同じ大学のコンピューターサイエンス学科を卒業後、彼女はデジタルフォレンジックの会社に入り、当時の給料は祐一の三倍はあった。あの頃の彼は「カップルは生活を平等に分担すべきだ」とよく口にし、家事は女性だけのものではないと熱心に語っていた。
二人は秋葉原の近くの小さなアパートで、一緒に貯金をしていた。
由梨が残業でコードのデバッグに追われていると、彼はいつも温かいラーメンを差し入れ、深夜の帰り道を心配してくれた。
今では、それらの記憶は汚染された水たまりのようだ。どれだけ足掻いても、元の澄み切った輝きを取り戻すことはできない。
「まったく、面倒な女を拾っちまったもんだ」
祐一はまだ、彼女がただ癇癪を起しているだけだと思っているようだった。
口論の後、祐一はワークスペースで寝ることを選んだ。
由梨は一人、寝室のベッドの縁に腰掛け、ノートパソコンを開く。画面には、六年にわたる二人の思い出が、ソースコードの形で広がっていた。
これらのコードは、とっくに彼女の過去と一体化していた。だが今、その一部を、彼女は自らの手で消去しなければならない。
北海道旅行の時、二人で開発したプライベートなメッセージアプリのことを思い出す。
祐一は当時、これが二人の問題を解決する『秘密の通路』になると約束した。言いたいことは何でもここで言い合おう、そうすれば相手は無視できず、二人の関係に責任を持ち、この時の気持ちを永遠に忘れないでいられる、と。
VCから投資を受けた後、彼は由梨に会社を辞めて自分のスタートアップに加わるよう誘った。彼女をCTOにすると約束したが、いくつかの理由から、彼女は断った。
今となっては、自分には本当に人を見る目がなかったのだと思い知らされる。
スクリーンの青い光が、由梨の血の気のない顔を照らす。胸に、鋭い痛みが走った。
この関係は、まるで六年間稼働してきたプログラムだ。しかし今、コアコードが悪意を持って改竄され、もはや期待通りには動作しないことに気づいてしまった。
疲労感だけが、全身を支配していた。
祐一が、もう純粋でなくなったのなら。
なら、彼を捨てるしかない。






