第3章

病院の廊下を照らす無機質な蛍光灯が、高橋由梨の目を刺すように痛かった。

壁に手をついた瞬間、世界がぐにゃりと歪むような感覚に襲われ、目の前の光景が急速に白んでいく。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

通りがかった看護師が慌てて駆け寄り、崩れ落ちそうになる彼女の体を支えた。

由梨はなんとか体を支えようと努めたが、額には脂汗がびっしりと滲んでいた。

「大丈夫です……少し、目眩がしただけなので」

これで三週間連続の残業。彼女の体は、悲鳴を上げていた。

以前は、健康診断のたびに祐一が付き添ってくれた。今日、彼女は初めて一人でここに来た。

診察室では、医師が検査報告書を睨み、その表情は険しい。

「高橋さん」

医師は顔を上げ、静かだが厳しい口調で告げた。

「あなたの体は、限界を超えています。過労による免疫システムの深刻な機能不全です。すぐに入院してください」

由梨は診察椅子に座ったまま、血の気を失った顔でうなだれた。

祐一と別れる決意は固めていた。だが、まさか自分の体がこれほどまでに壊れていたとは、思いもしなかった。

「先生、他に選択肢は……ありませんか?通院での治療は……会社が、今とても忙しくて……」

医師は静かに首を横に振った。

「あなたの数値は、どれも危険な水準にあります。このままでは、さらに深刻な合併症を引き起こす可能性がある。命に関わる問題です。入院して経過を観察することを、強く勧めます」

由梨は唇を固く噛み締め、黙って頷いた。

診察室を出て、廊下のベンチに力なく腰を下ろす。携帯電話を取り出し、しばらくためらった末、ついに藤田祐一の番号を呼び出した。

コール音の後、電話口から聞こえてきたのは、予想に反した、甘く涼やかな女性の声だった。

「もしもし、藤田社長はただいま会議中でございます。後ほど折り返しご連絡いたしますが、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

由梨は数秒間、息を詰めた。そして、何も言わずに通話を切った。

ナースステーションの前で、由梨は入院同意書にサインをした。インクが紙に染みていくのを見ながら、自嘲気味に呟く。

「自分の健康すら守れないのに、壊れた関係なんて、守れるわけないか……」

入院二日目、祐一から十数件のメッセージとメールが立て続けに届いた。

『どうして勝手に別れるなんて言うんだ』『ひどすぎる』――彼女を一方的に詰る内容ばかりだった。由梨は一件も返信しなかった。

彼女は病室のベッドに横たわり、ノートパソコンでSNSを漫然と眺めていた。

その時、ある投稿のタイトルが、彼女の視線を釘付けにした。

【#複数の関係を同時に維持するテクニック共有】

心臓が嫌な音を立てる。

由梨が投稿を開くと、そこには安定した関係を保ちながら、別の関係を育むための方法が詳細に記述されていた。成功事例を自慢げに語る者までいる。

投稿の中の細かな描写――描かれているシチュエーション、会話の駆け引き、さらには危機的状況の乗り越え方まで、あまりにも自分と祐一の経験と酷似していた。読めば読むほど、心臓が氷水に浸されたように冷たくなっていく。

『彼女は完璧主義のプログラマーで、スマホを一切チェックしない。おかげで何もかもが楽勝だ』

その一文が、焼けた針のように由梨の心を突き刺した。

彼女はすぐさま、投稿者の過去の文章と、祐一が過去に書いたブログ記事のテキストデータを比較分析にかけた。

数秒後、システムが弾き出した答えは無慈悲だった。

【ライティングスタイル一致率:87%】

最初に発見したあの投稿だけではなかった。彼は裏で、こんなことまで……。

由梨の指が震え、心臓が警鐘のように激しく脈打つ。衝撃に打ちひしがれていると、静かに病室のドアが開けられた。

祐一が、花束と果物を手に、心配そうな表情を浮かべて入ってくる。

「由梨、一体どうしたんだ?なんで連絡を返さないんだよ。君の同僚に聞いて、入院したって知って……」

由梨は激しい動悸を抑え、彼の顔を見ることさえ拒んだ。

「言ったでしょ。私たちは、もう終わりだって」

祐一は慌てて花束をサイドテーブルに置き、ベッドの傍らに腰掛けた。

「仕事のストレスで思い詰めてるだけだよ。元気になれば、そんな風に考えなくなるさ」

その時、祐一のスマートフォンの画面が光り、通知が浮かび上がった。

【佐藤晴美:今夜は予定通りでいい?】

由梨の視線が、その名前に吸い寄せられる。

瞬時に、あの投稿で言及されていたイニシャル『S』と、電話口のあの声が、頭の中で一本の線で繋がった。

「祐一」

由梨の声は、驚くほどに穏やかだった。

「ネットに、ああいう投稿を始めてどれくらい経つの?」

祐一の顔色が、一瞬で真っ青に変わる。

「……何を言っているんだ?意味がわからない」

「私の裏で、一体どれだけのことをしてきたの?」

由梨は静かに問い詰めた。その瞳には、諦観にも似た苦痛の光が揺らめいていた。

祐一は俯き、長い沈黙の後、ついに絞り出すように言った。

「ごめん、由梨……。これは、ただの一時の気の迷いだ。もう二度としないと約束する」

由梨は窓の外の、どこまでも広がる空を眺めていた。

かつてないほどの解放感が、胸に満ちていく。

ついに、心の疑念が確信に変わった。

その代償は、自らの健康と、六年間という歳月だった。

だが、少なくとももう、嘘の中で生きる必要はなくなったのだ。

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