第1章
「心配するな、智秋。言っただろ。今年の年間ピアノコンクールの優勝は、必ずお前のものだ」
半分だけ閉まった胡桃の扉。その隙間から、囁きが漏れてくる。
裕士の声だった。
私の婚約者。
彼は今、実の姉である智秋の頬を、まるで宝物でも扱うみたいに両手で包んでいた。
「でも……瑞穂の才能が……」智秋は甘えるように彼の胸に身を寄せる。
「みんな言ってるの。あの子が出たら、私は一生引き立て役だって」
「もう脅威じゃない」
裕士は智秋の唇に口づけた。あたたかな黄色い照明の下、二人の影がピアノ室で絡み合う。
「帝国音楽学院の院試に集中するため、そして『お前の夢を叶える』ために――あのバカは、自分から休学手続きをした。お前がスタインウェイの最高の舞台へ行くのに、足を引っ張ることはない」
胃の中が、ぐらりとひっくり返った。
自分の目が信じられない。
裕士の勉強のために。ずっと私を妬んできた姉が望む結果を手にするために。私は丸一年かけて仕上げてきたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を捨て、学院に休学願を出した。愛と家族のための献身だと思っていた――まさか、私をいつでも差し出せる生贄扱いしていたなんて。
私はゆっくりと二歩退き、踵を返す。大理石の廊下を、足音を殺しきれないまま早足で去った。
学院の建物を出た途端、スマホを取り出し、指導教員の村坂教授へ電話をかける。
「教授……私です、瑞穂です」
奥歯を噛みしめる。涙と雨が混ざって頬を流れた。
「休学願いを撤回したいんです。今すぐ学籍を戻してください。今年のコンクールに、もう一度申し込みます。はい、絶対に辞退しません」
電話を切ると、私は車道へ向けて足早に歩いた。頭の中は、奪われかけた全てを取り戻す算段で埋め尽くされていく。
――そのとき。
横断歩道に差しかかった瞬間、眩いハイビームが視界を焼いた。
きぃぃ、とタイヤが擦れる音。次いで、身体を叩き潰すような衝撃が突き刺さる。
私は宙へ放り出され、路面に叩きつけられた。血が一気に視界を滲ませ、耳には狂いそうなほどの耳鳴りだけが残る。薄れていく意識の中、黒いランドローバーが停止するのが見えた。
ドアが開き、雨水の上に降り立ったのは――見慣れた黒いマーチンブーツ。
実の兄、悠人だった。
同じ音楽学院の卒業生。私を守るはずの兄が、魂の抜けた処刑人みたいな顔で、こちらへ歩いてくる。
「は……悠人……」
助けを求めようとした。
けれど悠人は無表情のまましゃがみ込み、痛みに痙攣する私の両手を、冷たく見下ろした。
智秋の顔が脳裏をよぎる。悠人は幼い頃から智秋には逆らえなかった。盲目的と言っていいほどに。
次の瞬間、悠人の大きな手が伸び、私の命そのものだった十指を一気に掴み上げた。
そして――。
残酷すぎる力が、容赦なく押し潰してくる。
「ぁあ――!」
ぱきり、と骨が割れる乾いた音。十指から心臓へ直結する激痛が脳天を貫き、世界が真っ黒に沈んだ。
翌日。
重たいまぶたをこじ開けると、鼻を刺す消毒液の匂いが流れ込んできた。
両手は、分厚いギプスで巻かれている。主治医の小林医師がベッドの足元に立ち、悔しさと憐れみの混ざった目で告げた。
「瑞穂さん……申し訳ありません。指の中手骨は粉砕骨折です。尺骨神経と正中神経に、不可逆的な重度損傷が見られます。今後……ピアノの演奏は、難しいでしょう」
ピアノが弾けない。
病室の扉が勢いよく開き、酒臭い悠人が飛び込んできた。目は真っ赤で、ベッド脇に膝をつき、ぐしゃぐしゃに泣き崩れる。
「瑞穂! ごめん! 昨日、バーに行って……ウイスキーを飲みすぎたんだ……! あの雨のせいで、頭がおかしくなって……ほんとに、わざとじゃない! お前をはねるつもりなんか――!」
その悔恨の顔を見て、胸の奥が言葉にならない冷たさで満たされていく。
飲酒運転?
なんて都合のいい言い訳。
私は目を閉じた。
指を砕いたときのあの冷酷さを、私ははっきり覚えている。それでも、血の繋がった兄だ。長い沈黙ののち、枯れた声で、たった一言だけ吐き出した。
「……うん」
しばらくして、病室の外から聞き慣れた足音。
裕士だ。
「裕士さん、今は面会できません。患者さんは、どなたとも会いたくないと」看護師が入口で制した。
私はベッドに横たわり、天井の白く眩しい蛍光灯を見つめたまま、扉の向こうの気配を黙って聞く。
「お願いです、一目だけでも会わせてください!」
裕士の声は、すすり泣きと熱に濡れていた。
「僕は婚約者なんです! 神よ……彼女の手が……彼女がどれほど苦しんでいるか……! 伝えてください。何があっても、たとえピアノが弾けなくなっても、瑞穂は僕の生涯ただ一人の愛だって。来月の結婚式は予定通り挙げます。僕が一生、彼女を支えます!」
廊下中が感動しそうな告白。
それを聞くほど、胃の底から吐き気がせり上がる。脳裏には、さっき見たばかりの光景――ピアノ室で智秋を抱き、深く口づける裕士の姿が、何度も何度も焼き付いて離れない。
彼は外に向けて、そして自分自身に向けて、立派な男を演じている。
私は何も言わなかった。
感覚の鈍い十本の指が、ギプスの中でじくじくと跳ねる。屈辱の焼き印。そして、復讐の火種。
その滑稽な仮面を剥がしはしない。ただ唇を噛み、血の味を確かめながら、この吐き気のする独り芝居を、一言残らず骨の髄まで刻みつけた。
