第2章
それから一週間。裕士は毎日、今にも露がこぼれそうな赤いバラを抱えて病室に現れた。私が面会を断って追い返すと、彼は扉の外に立ったまま、胸の奥をくすぐるような甘い言葉をいくつか残していく。
悠人も毎日顔を出した。目の縁を赤くして、「酒酔い運転で事故を起こした」兄として悔恨に潰れそうな芝居を打つ。智秋だけは一度も来ない。年に一度の大舞台に向けた合宿のような閉鎖リハーサルに、全身全霊を注いでいるのだと聞かされた。
最後に残ったわずかな尊厳を守るため、私は感情のすべてを胸の底に鍵をかけた。
あの、雨が途切れず降り続く木曜の午後が来るまでは。
昼食のあと、看護師が出ていったばかりだった。むかむかして、私は点滴台を押し、ふらつく足を引きずりながら、病室付属の小さなトイレへ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水で目を覚まそうとした、その瞬間。半開きの換気窓の向こうから、声を潜めた話し声が飛び込んできた。
「裕士……頼む、何か……鎮静剤みたいなの、くれよ」
悠人の声だった。神経が擦り切れたみたいに震えている。
「この二日、ずっと眠れない。目を閉じると、あの夜の――あのレンジローバーが突っ込んだ光景が、何度も……。俺が瑞穂の指を握り潰したときだって、あいつ……俺の名前呼んで、助けてって――」
心臓がぐしゃりと縮んだ。息が、そこで止まる。
「黙れ。声、もっと落とせよ、悠人!」
裕士の声が返ってきた。冷たく、苛立ちを隠しもしない。
「今さら何を罪悪感だ。こっちだって手を打つしかなかった。教務課の内通がすぐ知らせてきたんだぞ。瑞穂が村坂教授に電話して復学を頼んだって。あのままだったら、智秋の優勝は終わってた」
カチ、とライターの乾いた音。裕士が煙を吐く気配がした。言葉は、煙より冷たい。
「選択肢なんてなかった。瑞穂の手がある限り、審査員の票は智秋には流れない。お前、また智秋が負けて崩れるのを見たいのか?」
「見たくない!」
悠人が食いつくように言った。
「智秋がスタインウェイの一番高いところに立てるなら、俺は何でもする。だけど……裕士。瑞穂は、俺の実の妹なんだ。それに、俺たち……わざとあの交差点の監視カメラも切らせた。もし警察に……」
「お前が酒酔い運転だって言い張ればいい。三浦が法廷で手を回す。単なる事故で終わる」
裕士の声は、毒蛇みたいに冷えきっていた。
「俺はこの先も、健気な婚約者を演じて瑞穂を宥める。智秋が確実に優勝を取ったら、全部終わりだ」
蛇口の水がざあざあと流れ続ける。私の荒い呼吸の震えだけを、都合よく飲み込んで。
私は鏡の中の自分を、まばたきもせず見つめた。顔色は死体安置所の紙みたいに白い。
私はずっと、酒に煽られた衝動が悲劇を生んだのだと思い込もうとしていた。二十年分の兄妹の情で、悠人に言い訳まで探した。けれど違った。私が指導教員に電話を入れた、その瞬間から――あの人たちは「家族」と「愛」という名の絞首台に、私のための縄を用意していた。
手を奪い、未来を奪い、それでも足りずに、逃げ道まで塞ぐ。
よろめきながらトイレの扉を押し開け、病床へ駆け戻った。ギプスで固められた不自由な腕で、ベッドサイドの引き出しを引き抜く。身分証と小銭だけでも、鞄にかき集める。いちばん早い便の切符を買って――ここから出る。
「ぱたん——」
引き出しの中身が、重たく床に散った。拾おうと腰を折った、その時。張り詰め続けた神経と、たった今受けた巨大な衝撃が、限界を越えた。視界がふっと黒く落ち、ぐらりと世界が傾く。私は冷たい床へ、鈍い音を立てて倒れた。
次に意識を取り戻した時、私はまたベッドの上にいた。空気の中に、医師たちの低い話し声が混じっている。
「瑞穂さん、目が覚めましたね」
小林医師の声は、ただの気の毒さではなかった。重い、複雑な響きがある。隣には白衣の中年女性医師が立っていた。胸の名札には「産婦人科主任」。
「私……どう、なって……」
主任医師が前に出る。
「瑞穂さん。先ほど、体力の低下と強い情動の影響で失神されました。血液検査を詳しく行ったところ、HCGが通常よりかなり高い値でした」
彼女は一拍置き、静かに告げた。私をもう一度、底なしへ突き落とす言葉を。
「妊娠しています。週数は、もうすぐ八週です」
病室の外の廊下から、ちょうど裕士が看護師と押し問答している、聞き慣れた声が届いた。私の人生をこの手で壊した悪魔。たった今この陰謀を語っていた男が――私の体の中に、消せない血を残していた。
私は天井の白い灯りを見つめたまま、動けなかった。砕かれた指骨の一本一本から、骨の髄まで凍るような寒さが立ち上り、子宮へと這っていく。
