第3章
女性医師の言葉が落ちるや否や、病室のドアが乱暴に押し開けられた。
裕士がそこに立っていた。手には、まだあの薔薇の花束を握ったまま。医師の話を聞いてしまったのだろう、表情が一瞬だけ固まる。けれど次の瞬間、戸惑いを塗り潰すように、ほとんど本物と見分けがつかない狂喜が顔いっぱいに広がった。
「瑞穂……俺たち、子どもができたのか?」
大股でベッド脇まで来ると、薔薇を無造作に放り投げ、片膝をついた。まだ感覚の戻らないギプスの手に、そっと頬を寄せる。肩が小刻みに震えている。まるで、世界の祝福を一身に受けた父親のように。
私は彼の頭頂を冷たく見下ろし、何も言わなかった。
――けれど、そのあとの二か月。裕士は別人みたいになった。
放課後の付き合いも、リハーサルも全部断り、毎日私のアパートに張りついた。
朝は、温かいオートミールとミルクを運んでくる。昼下がりには車椅子を押し、落ち葉の積もるハイド・パークの並木道を散歩させてくれた。帝国音楽学院にも付き添い、教務主任の前で私のために筋を通して訴え、音楽理論や作曲科への転科が可能かどうかまで、辛抱強く質問してくれた。
陽の中で私のために動き回る横顔。額に落ちる、ぬくいキス。
その甘い泡の中で、私は自分をだましていった。――あの日、トイレで聞いたのは、心が壊れかけた私の幻聴だったのかもしれない。私の勘違いで、彼は本当に私を愛していて、この子を待っているのかもしれない、と。
だが十一月。裕士は高級なオーダーメイドのドレスサロンに、試着に行こうと私を誘った。私たちは交差点で足を止める。
「ねえ、ここは駐車禁止なんだ。君は角で一分だけ待ってて。地下駐車場に入れて、すぐ迎えに来るから」
彼は優しくカシミアのコートの襟を整え、頬にキスを落とした。
私はうなずき、黒いポルシェが曲がり角の向こうへ消えるのを見送った。
――そして、彼が離れて二分も経たないうちに。
ナンバーのないミニバンが、私の目の前に急停止した。ドアが勢いよく引き開けられ、男が三人、飛び降りてくる。
悲鳴を上げる暇もなかった。喉元をがっちり締め上げられ、ずるずると暗く湿った路地へ引きずり込まれる。
「やめて! バッグは左のポケット、カードもお金もある! このカルティエの時計だって持っていっていい!」
ギプスの両手で胸元をかばいながら、私は絶望の声を絞った。
けれど連中は、財布にも高級腕時計にも興味がない。
ひとりが鼻で笑った。
「悪いな、お嬢さん。大金を払ってまで、お前の腹の中の肉の命を買った奴がいる」
言い終える前に、重たい軍靴の足が、私の腹へと叩き込まれた。
「いや――!」
私は裂けるように叫び、必死に身を折って、役に立たない手で腹を守ろうとする。
ドスッ、ドスッ、と容赦ない連続の蹴り。小腹に落ちる一撃ごとに、骨と肉が引き裂かれるような激痛が走った。
血が太ももを伝って流れ落ちる。私は痛みの底で身体を丸め、ただ震えた。
そして、私はまた病院に戻った。
病室のドアが、ぞんざいに押し開けられる。裕士が、遅れてやって来た。
「子ども、駄目だったんだろ」
淡々とした声。
私の唇は激しく震えた。
「どうして……裕士、あなたは駐車しに行ったはず……あれは、いったい何者なの……?」
しばらく沈黙したあと、彼はふいにネクタイを引き、長く息を吐いた。
「瑞穂。こんなこと、俺だってしたくなかった。でもここ数日、智秋が家で大騒ぎでさ。テーブルの物は全部叩き落とすし、割れたガラスを手首に当てて脅すし……あいつは、この子を許せない。お前が俺の子を身ごもってる限り、智秋は一日も安らげない。だから余計な厄介事は、消すしかなかった」
「じゃあ……あなたが……」
目の前が赤く滲む。あの二か月の幸福の幻は、今、残酷に引き裂かれ、中から腐りきった膿が露わになった。
彼が私を甘いぬくもりに溺れさせたのは、警戒心を落とさせるため。痕跡の残りにくい方法を選び、私を骨ごと抉り捨てるためだった。
裕士は腕時計をちらりと見て、露骨に苛立ちを滲ませる。
「もう行く。今夜は帝国音楽学院の、年度ピアノコンクールの盛大な祝賀会なんだ。智秋が案の定優勝してさ。三浦のおじさんがホテルの宴会場を丸ごと押さえた。教授も、俺たちの同期も、みんな俺が来るのを待って乾杯するんだ」
彼は一秒も余計に留まらず、背を向けて病室を出て行った。
窓の外、夜空が遠くで花火に染まりはじめている。半分離れた街の向こうからでも、ホテルの宴会場でシャンパンのグラスが触れ合う、澄んだ音が聞こえてくる気さえした。
学院の師生。私の実の父。実の兄。そして、私の婚約者――誰もが、最も熱い拍手で智秋に冠を載せている。
気づけば、涙はとうに枯れ果てていた。
残ったのは――すべてを焼き尽くす憎しみだけだった。
